私は主を待ち望む

「私は主を待ち望む」 2018/7/29

哀歌3:22~33
マルコ5:21~43

今日の福音書は、イエス様が会堂管理者ヤイロの12歳の娘を助けに行く途中で、12年間出血の止まらない長血の女性をいやす箇所です。この2つの出来事には共通のメッセージがあります。まず「神様は喜びも悲しみもお与えになる」ということです。12年前、ヤイロに娘が誕生して喜びに満ちていた頃、長血の女性は発症し、悲しみに沈んでいました。なぜ神様はみんなに喜びだけを与えてくださらないのでしょうか?
ある人は「良い人には喜びが与えられ、罪人には悲しみが与えられるのだ」と言います。しかしイエス様は「(人の悲しみは)罪の結果ではない。ただ神のみわざがこの人の上に現れるためだ。」と言われました。悲しみの背後にも「主の恵み」があり、いつか必ず恵みのみわざがその人の上に起こるのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる」(哀歌3:22)。「たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。(同3:32)。と書かれてある通りです。
ヤイロと長血の女の共通点、それは2人とも、大きな苦しみの中で、その苦しみの根底にある神様の「恵み」を信じた、ということです。「吉と出るか凶と出るか」ではなく「必ず吉と出る」という信仰。ただ「待つ」信仰ではなく「待ち望む」信仰。「いちかばちか」ではなく「きっと娘は生き返る」「きっとわたしは癒される」という信仰です。これが2人の信仰であり、聖書が教える信仰です。
でもこのように「苦しみの根底にも神様の恵みがある」と断言できる根拠は何でしょうか?それはイエス様の十字架と復活です。イエス様は人間の罪、病、弱さを引き受けて十字架で死なれ、引き換えにご自分の命、平安、健康、希望を人間に与えてくださいました。何があってもこの事実は絶対に変わりません。だからこれからも、どんな苦難があっても、安心して主を待ち望んでまいりましょう。 (永田 令 牧師)