月別アーカイブ: 11月 2020

究極の恩送り

「究極の恩送り」 2020/11/22 主日礼拝メッセージ

マタイ25:31-46

教会暦では今日が今年最後の日曜日です。この時期はイエス様が再び地上に来られる「再臨」について学びます。きょうの福音書に「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます」(マタイ25:31)とあります。イエス様の一度目の来臨、すなわちクリスマスでは、イエス様はみずぼらしい姿で馬小屋でお生まれになりました。しかし再臨の時は栄光に輝く姿で来られ、すべての人を「羊とヤギ」に分けます。

「羊」とは、助けを必要としている人に手を差し伸べた人です。その行為はイエス様ご自身にしたこととみなされて、イエス様は神の国に入れてくださいます。一方「ヤギ」とは、助けを必要としている人に何もしなかった人で、その人はイエス様ご自身に何もしなかったとみなされ、永遠の火に入れられます。

しかしこれでは、「人が天国にいくかどうかは、結局その人自身の行いによる」ということになります。でも聖書のメッセージは (さらに…)

喜びの冒険

「喜びの冒険」 2020/11/15 主日礼拝メッセージ

マタイ25:14-30

イエス様は、わたしたちが予期しない時に再び地上に来られます。だからいつ来られても良いように、「特別な時」だけでなく、ふだんから備えておく必要があります。

きょうのたとえ話で、主人が3人のしもべたちにお金を預けて旅に出ました。「ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラント」(マタイ25:15)。「タラント」というのは「タレント」の語源で、「才能」とか「能力」を表しています。確かに人それぞれ才能の量には個人差があります。しかし最低でも1タラント与えられています。1タラントは6000日分の給料に相当する単位です。「自分には何もない」と思っていても、実はかなりの能力をみんな持っているのです。

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油断大敵

「油断大敵」 2020/11/8 主日礼拝メッセージ

マタイ25:1-13

きょうの聖書は、イエス様が再び地上にやって来られる「再臨」について教えるたとえ話です。ユダヤの結婚式では花婿が花嫁を家まで迎えに行き、花嫁の友人たちが出迎える習慣がありました。到着時間は誰にもわかりません。

きょうのたとえで夜中に花婿が近づいた時、出迎え役の10人の娘のうち、愚かな5人は予備の油を用意していなかったためにともしびの火が消えかかり、調達に走っている間に花婿が到着し、祝宴に入ることが出来ませんでした。しかし賢い5人は予備の油を用意していたので祝宴に入ることが出来ました。

イエス様の再臨も、その日その時は誰にもわかりません。だからいつでもわたしたちは「油断」、すなわち油を切らさないで待っている必要があります。油とは「聖霊」のことです。誰でもイエス様を信じて洗礼を受けると、神様から「聖霊」をいただきます。きょうの話で10人とも最初の油は持っていました。しかし、愚かな5人は「欠乏を埋める」油を持っていなかった。これは聖霊に「満たされていなかった」ということです。聖霊に満たされると、人は自信に満ち溢れるのではなく、かえって自分の罪が示されて、神様にゆるしを求めるようになります。「その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネ16:8)。こうしてますますイエス様の十字架による救いのありがたさを知るようになる、これが聖霊様の力です。

いつでも聖霊様に満たされているために必要なことは、まず第一に「聖書を読む」ことです。 (さらに…)

共に座ってくださるお方

「共に座ってくださるお方」 2020/11/1 主日礼拝メッセージ

マタイ5:1-12

きょう11月1日は、天国へ旅立たれた聖徒たちを覚える「全聖徒の日」です。昔からこの日にはマタイ5章1~12節の「山上の説教」が読まれてきました。あの中村哲医師が若い頃、暗記するほど読んだという箇所です。

イエス様が山に登り、お座りになると、御言葉を聞くために人々が集まってきました。日頃の喧騒から離れ、座ってじっくり御言葉に耳を傾ける、これこそ天国の情景を思わせる平安な時間です。このような時を大切にしましょう。

5章3節に「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」とあります。この「幸い」という言葉は、出来事(happen)の良し悪しによって左右される「happy」ではなく、ギリシャ語の「マカリオイ」で、「神に祝福されている」という意味です。 (さらに…)