月別アーカイブ: 1月 2024

もったいない!

「もったいない!」 2024/1/7

マルコの福音書1章4~11節

 明けましておめでとうございます。きょうは今年最初の日曜礼拝です。「礼拝」は英語で「サービス」です。人間から神様へのサービスではなく、神様が人間にサービスしてくださるということです。だから礼拝は「出なきゃダメ」なのではなく「出ないともったいない」のです。

さて、きょうはイエス様が洗礼をお受けになったことを記念する日曜日です。約30歳になられたイエス様が、救い主としての働きを始めるにあたって、ヨハネからバプテスマ(洗礼)をお受けになったのでした。ヨハネの洗礼は、いま教会で行われている洗礼とは違います。現在の洗礼は、水と一緒に聖霊も(目には見えませんが)注がれています。洗礼の水によって罪びととしての自分が溺れ死に、そこへ聖霊様がくだって神様の子どもに生まれ変わる、これが現在の洗礼です。しかしヨハネの洗礼では聖霊が注がれません。ただ自分の罪を認めて「悔い改めます」という意思表明でしかありません。つまり救いに至る入り口ではあっても、救いそのものではないのです。 (さらに…)

律法からの自由

「律法からの自由」 2023/12/31

ルカの福音書2章22~40節

 イエス様は旧約聖書に記された律法の規定に従って生後8日目に割礼を受け、その日に「イエス」という名がつけられました。さらにその33日後、両親に抱かれてエルサレム神殿に来られました。その目的は2つあり、1つは出産した母親の「きよめの期間」が終わった時のいけにえの動物をささげるため。もう1つは「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者」(23)との規定に従って、神殿にイエス様をささげるためです。それで両親は、きよめのいけにえとして山鳩と家鳩、初子の聖別として5シェケルのお金を神殿にささげました。旧約聖書の律法を忠実に守ったのです。しかしイエス様は罪なき神の子であり、律法を守る側ではなく律法で人を裁く側ですから、ほんとうは律法に縛られる必要はないのです。それなのにちゃんと律法を守られた。それは、イエス様ご自身が律法に束縛されることによって、私たち人間を律法の束縛から解放するためです。 (さらに…)

神の国がここに

「神の国がここに」 2024/1/21

マルコの福音書1章14~20節

 先週の17日は阪神淡路大震災から29年目の日でした。さっき歌った聖歌397番は、関東大震災を経験した宣教師が作った歌です。「慰めもて 汝(な)がために、慰めもて 我(わ)がために、ゆれ動く地に立ちて なお十字架は 輝けり」。地震で揺れ動く大地のように、わたしたち人間の心も、神への不信や他者への思いやりのなさで、日々揺れ動いています。しかしそんなわたしたちの心に、なお十字架は輝いている。これこそが福音です。

ガリラヤで活動を始められたイエス様は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(15)とおっしゃいました。わたしたち人間の方が神の国に近づいていくのではなく、神の国の方から、揺れ動く私たちの所に来てくれたのです。 (さらに…)

これこそ、本当のイスラエル人だ

「これこそ、本当のイスラエル人だ」 2024/1/14

ヨハネの福音書1章43~51節

  本日の箇所は、イエスさまが救い主としての働きを始めるため、後の十二使徒となるピリポを弟子に迎え入れられる場面です。イエスさまはピリポを見つけて、「わたしに従ってきなさい。」と言われました。ピリポは、直ちにイエスさまに従う決心をしましたが、同時に親友のナタナエルも誘うことにしました。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」(45)。そう言ってピリポはイエスさまをナタナエルに紹介しました。つまり「救い主に会った」ということです。
(さらに…)