神の国がここに

「神の国がここに」 2024/1/21

マルコの福音書1章14~20節

 先週の17日は阪神淡路大震災から29年目の日でした。さっき歌った聖歌397番は、関東大震災を経験した宣教師が作った歌です。「慰めもて 汝(な)がために、慰めもて 我(わ)がために、ゆれ動く地に立ちて なお十字架は 輝けり」。地震で揺れ動く大地のように、わたしたち人間の心も、神への不信や他者への思いやりのなさで、日々揺れ動いています。しかしそんなわたしたちの心に、なお十字架は輝いている。これこそが福音です。

ガリラヤで活動を始められたイエス様は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(15)とおっしゃいました。わたしたち人間の方が神の国に近づいていくのではなく、神の国の方から、揺れ動く私たちの所に来てくれたのです。天からイエス様が来られ、わたしたちの罪も弱さも恐れも全部背負って、十字架で死んでくださり、復活されました。そのおかげで、どんなに揺れ動く者であっても、神の国はわたしたちと共にあります。

「神の国」というのは、地上のどこかに領土を持つ国家のことではなく、王である神様の支配が行き渡っている状態であり、それを認めている状態です。現在のイスラエルのように、神様を利用して自分たちの国家を強引に作ろうというのではありません。自分が揺れ動く者であること、神様の御心に反する者であることを認めてイエス様を受け取るとき、そこに神の国はあります。

神の国を内に持つ人は、神の国の持つ「生命力」によって、周りの人々に影響を与え、いのちを与えます。「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう』」(17)。人間を「とる」というのは、「搾取する」という意味ではなく、むしろ相手を生かし、いのちを与えるという意味の言葉です。自分の命をささげて相手に命を与えるために働く人。それが人間をとる漁師です。それが出来るのは、揺れ動く地に立つイエス様の十字架を仰ぎ見ている人です。家庭も商売も大切なものですが、いつかは「過ぎ去る」ものです(Ⅰコリント 7:31)。揺れ動く地上のものに頼るのではなく、イエス様の十字架により頼む人は、たとえ大きな苦難の中で倒れても、再び立ち上がることが出来ます。その人は言葉を越えて、周囲の人々に神の国を広げます。それこそ神の国自身の持つ力なのです。

(永田 令 牧師)