月別アーカイブ: 4月 2022

過去の投稿&メッセージ 

イエスは生きておられる

「イエスは生きておられる」 2022/4/24 復活節第2主日礼拝メッセージ

ヨハネの福音書20章19~31節

イエス様が復活された日曜日の朝、女たちは墓の前の御使いから「イエス様はよみがえられた」と聞かされ、他の弟子たちに伝えました。しかしその日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて部屋に鍵をかけていました。この扉は「信じたいけど信じられない。どうしても疑ってしまう」という弟子たちの心を表しています。わたしたちの心も同じではないでしょうか?

しかしその部屋の真ん中にイエス様は立たれました。わたしたちの疑いの壁をイエス様はいとも簡単に乗り越えてくださるのです。そして (さらに…)

思い出した!

「思い出した!」 2022/4/17  主の復活日礼拝メッセージ

ルカの福音書24章1~12節

イースターおめでとうございます。
イエス様は金曜日に十字架で死なれました。その翌々日(日曜)の朝、女の弟子たちはイエス様の体に香料を塗るため墓に向かっていました。ギリシャ語の「墓」という言葉の語源「ムネーメオー」には「思い出す」「記念する」という意味があります。つまり亡くなった人を「思い出す」ための「記念碑」、それがお墓です。

しかし彼女たちが行ってみると墓の入り口の石がころがしてあり、イエス様の体はありませんでした。彼女たちはまだイエス様が生き返ったとは思っていませんから、途方に暮れてしまいます(4)。すると墓のそばで2人の御使いが言いました。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」(5-6)。「ここ」とはお墓、つまり「思い出」です。しかしイエス様は「思い出」の中にいるのではなく、よみがえられて、現実に生きておられます。 (さらに…)

弟子たちは群れとなって

「弟子たちは群れとなって」 2022/4/10 四旬節第6主日礼拝メッセージ

ルカの福音書19章28~40節

きょうの聖書は、イエス様が十字架につかれるためにエルサレムに入城される場面です。この日からの一週間を受難週と呼びます。

29節に「ベテパゲとベタニヤに近づかれたとき」とあります。ベタニヤの人たちは、死んで四日もたったラザロがよみがえる奇跡を目撃しました。それで彼らは村を挙げてイエス様を信じ、いわば村人全員がイエスさまの弟子と言ってもいい状況でした。隣村のベテパゲでも、つないであった子ろばを弟子たちがほどいて「主がお入り用なのです」と言うと、ろばの持ち主は支障なく渡してくれました。「主」とはイエスさまのことであり、イエスさまにはこのろばを使っていただく権威があると信じていたからです。そして村人たちは自分たちの上着を道に敷いて、ろばに乗ったイエスさまを歓迎しました。

このように、当時の多くの人々が「イエスはキリスト(救い主)」という理解には達していました。その点で彼らは、イエスさまのことを「あなたは神のキリストです」と告白したペテロと同じレベルの弟子と言えます。

しかし、キリストであるはずのイエスさまが、なぜ仕える者の姿でいるのか、キリストが来られる本当の理由は何かを、彼らは知りませんでした。 (さらに…)

地に足がついた香り

「地に足がついた香り」 2022/4/3 四旬節第5主日礼拝メッセージ

ヨハネの福音書12章1~8節

4月に入りました。4月といえば入学、入社など、新しいことが始まる季節です。しかしイザヤ書43:19に「見よ。わたしは新しい事をする。」とある通り、本当に人を新しくするのはその人自身の力ではなく、神様の力です。

(さらに…)