礼拝メッセージ

キリストに似る

「キリストに似る」 2024/4/21

ヨハネの福音書10章11~18節

 今年の姫路教会のあいことばは「下に根を張り、上に実を結ぶ」。礼拝と交わりによって「下に根を張る」ことが大切です。しかし下に根を張る目的は「上に実を結ぶ」ためです。「実を結ぶ」とは、世界中の人がイエス様を救い主として信じて、イエス様の御名によって新しいいのちを得ることです。それはどうやって実現するのでしょうか?それはクリスチャン1人1人がイエス様に似た者となること、すなわちイエス様のように人々を愛し、犠牲を払ってでも人を助ける生き方をすることで実現します。「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」(Ⅰヨハネ3:23)。この「命令」という言葉は単数形ですから、「キリストを信じること」と「互いに愛し合うこと」とは一つです。「神様を愛することは人を愛すること」であり、「神様を愛さないことは人を愛さないこと」なのです。しかし「人を愛する」ことがどれほど難しいかは、信仰生活が長ければ長いほど痛感します。 (さらに…)

疑いようのないこと

「疑いようのないこと」 2024/4/14

ルカの福音書24章36~48節

 私たちは人生で様々なことを学び経験して、すべてを丸のみで信じないようにします。しかし、信仰についてはどうでしょうか。今日のルカの箇所のような奇跡のエピソードとか、さらには、イエス様の十字架の贖いやイエス様のご復活のことさえ、時には信じられなくなることがあるかもしれません。でも、聖書に記されていることを疑うことは、人生で経験する疑いとは質が違います。信仰というものは、聖書に記されていることが事実として証明されているから信じるのではなく、そのみ言葉を神様が私たちに語り掛けてくださる言葉として日々受け取り、応答することです。しかし、私たちは、厳しい人生経験の中で、自分の信仰に疑問が生じてくることがあります。このことを考える時、私たちは何か信仰について重要なことを勘違いしていないか、ということです。信仰を他の誰かと比較して、信じる気持ちが弱いとか強いとか、そういうものではないのです。今日の聖書日課の使徒3:16にあるように、イエス様の御名そのものが足を癒してくださったということです。信仰の始まりは、イエス様によって与えられた信仰です。同じ使徒3:16に「イエスによって与えられる信仰が・・」とある通りです。この信仰に立ったとき、信仰の結果は、神様と私たちの取引の結果ではなく、自分の信仰の力によって神様を動かしたということではありません。また、ややもすると、人生の苦難の中で、神様が信仰を持つ私たちを見捨てておられるように感じてしまうこともありますが、神様は、単純に私たちの信仰の対価として幸運を与えてくださる商人のような方ではありません。神様が、まず人間の悲惨な罪のどん底から、私たちをただ信仰のみによって救い出してくださったのです。このこと自体が途方もない奇跡です。

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しあわせなら態度で示そうよ

「しあわせなら態度で示そうよ」 2024/4/7

ヨハネの福音書20章19~31節

 イエス様は「週の初めの日」、つまり日曜日に復活されました。それでキリスト教会は日曜日に礼拝するようになりました。イエス様がよみがえられた日の夕方、弟子たちは戸の鍵を閉めて部屋に集まっていました。朝から「イエス様はよみがえられた」という情報は入っていましたが、弟子たちは信じられず、ユダヤ人を恐れて鍵を閉めていました。しかしイエス様はその部屋に入って来られました。物理的な壁も、かたくなな心も、ものともせずに。そして「平安があなたがたにあるように。」とおっしゃったのです。この「平安」というのは、この世の平安ではありません。神様と距離感なく、神様から裁かれる恐怖もなく、安心して共にいられるという平安です。まさにイエス様ご自身と同じ平安です。「平安があなたがたにあるように。」そう言ってイエス様は、ご自分の手とわき腹をお見せになりました。そこには十字架につけられた時の傷跡がありました。「この傷こそ、あなたたちに本当の平安をもたらす十字架のしるしだ。」ということです。わたしたちも、何か不安になったり疑いが生じたりした時は、イエス様の十字架を見上げ、「イエス様の十字架があるからわたしは救われたのだ」ということを思い起こしましょう。そこに本当の平安があります。

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長く白い衣をまとって

「長く白い衣をまとって」 2024/3/31

マルコの福音書16章1~8節

 イースターおめでとうございます。人がクリスチャンになる前と後で一番違うことは何でしょうか?それは「死ぬのが怖くなくなった」ということではないでしょうか?このことは年齢に関わらず、生涯を通じて心に大きな安心を与えます。その安心の根拠が「イエス・キリストの復活」という出来事です。

イエス様が金曜日に十字架で死なれた後の日曜日の早朝、女の弟子たちがイエス様の遺体に香料を塗ろうと墓に向かいました。すると墓の入り口の石が転がしてあり、長く白い衣をまとった青年が座っていたのです。この青年は天使でした。そして彼女たちに「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません」(6)と、イエス様の復活を宣言します。

なぜマルコは「天使」と書かずに「青年」と書いたのでしょうか?それは「これからイエス・キリストの復活を世に知らせていくのは、天使ではなく、あなたたち人間ですよ」ということです。今も死を恐れている多くの人々に「もう死を恐れる必要はありません。イエス様はよみがえられました。あなたもイエス様を信じれば、天国でよみがえります」と宣言する役目は、天使ではなくクリスチャン一人一人に与えられたのです。

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