月別アーカイブ: 3月 2018
美しい人
「美しい人」 2018/3/25
ゼカリヤ9:9~10
マルコ14:1~9
今日は受難主日です。十字架刑を目前にしたイエス様がベタニアに立ち寄られた時、ひとりの女性(マリヤ)が、高価なナルド油を一壺全部、イエス様の頭に注ぎました。人々は「もったいない」と思いましたが、イエス様はその行為を「りっぱな(=美しい)こと」とおっしゃいました(マルコ14:6)。
彼女の行為の「美しさ」はどこにあるのでしょうか?一壺300万円以上もする高価な香油を、全部イエス様にささげたことでしょうか? (さらに…)
いい風に吹かれないと
「いい風に吹かれないと」 2018/3/18
エペソ3:14~21
ヨハネ12:36b~50
「見ているけど見ていない」、・・ということが人間にはあります。イエス様の時代のユダヤ人たちは、イエス様を目で見、イエス様の奇跡も見ました。けれども彼らはイエス様を、ただ便利な王様として見ただけで、「自分を罪から救ってくれる救い主」とは見ませんでした。イエス様から700年以上前にイザヤが預言した通りです。
しかしイザヤ自身は、イエス様を肉眼で見てはいないのに「イザヤはイエスの栄光を見た」(ヨハネ12:41)とあります。 (さらに…)
救いは滅びに打ち勝つ
「救いは滅びに打ち勝つ」 2018/3/11
民数記21:4~9
ヨハネ3:13~21
本日の箇所は、イエスさまとニコデモとの問答の最後の部分です。
イエスさまは15節で永遠の命を持つことについて語られました。救いとは、消極的には罪の赦し、積極的には永遠の命を受けることです。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」毒蛇にかまれた者は旗竿に上げられた青銅の蛇を見れば助かる。そう信じて見上げれば助かりました。同じように、十字架に上げられたイエスさまを見上げるなら、 (さらに…)