美しい人

「美しい人」 2018/3/25

ゼカリヤ9:9~10
マルコ14:1~9

今日は受難主日です。十字架刑を目前にしたイエス様がベタニアに立ち寄られた時、ひとりの女性(マリヤ)が、高価なナルド油を一壺全部、イエス様の頭に注ぎました。人々は「もったいない」と思いましたが、イエス様はその行為を「りっぱな(=美しい)こと」とおっしゃいました(マルコ14:6)。
彼女の行為の「美しさ」はどこにあるのでしょうか?一壺300万円以上もする高価な香油を、全部イエス様にささげたことでしょうか?それもあります。しかし8節にあるように、彼女がイエス様の「埋葬の用意」としてそれを行ったことが重要です。
このナルド油というのは、ユダヤ人やローマ人が「死体を葬るために」使っていたものです。それを、まだ生きているイエス様に注いだということは、イエス様がこれから死なれることを彼女は知っていたということです。しかもその死には、高価な香油を全部注ぐほど価値があるということも知っていました。イエス様の死が自分を救ってくれるということを、マリヤは信じていたのです。
今日はイエス様が十字架にかかるためにロバの子に乗ってエルサレムに入らられた「枝の主日」でもあります。ここエルサレムでイエス様は、人々の悪口雑言を浴びながら十字架につけられ、死なれました。神様にお金や時間をささげることを「もったいない」と思ってしまうわたしたちの身代わりに、イエス様は死んでくださいました。このイエス様の十字架の前にへりくだり、その死に価値を見出す人、それが「美しい人」です。
イエス様の死に価値を認め、その死に感謝する人は、その人自身の価値も輝き出し、その人の行為も多くの実を結びます。反対に、どんなに良い活動をしても、イエス様の死に対するへりくだりと感謝がないならば、その人の行いはむなしく、むしろ醜くさえあります。今日マリヤを非難した人々のように。
今週も主の十字架の前にへりくだりつつ受難週を過ごし、喜びをもって来週のイースターを迎えましょう。 (永田 令牧師)