救いは滅びに打ち勝つ

「救いは滅びに打ち勝つ」 2018/3/11

民数記21:4~9
ヨハネ3:13~21

本日の箇所は、イエスさまとニコデモとの問答の最後の部分です。
イエスさまは15節で永遠の命を持つことについて語られました。救いとは、消極的には罪の赦し、積極的には永遠の命を受けることです。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」毒蛇にかまれた者は旗竿に上げられた青銅の蛇を見れば助かる。そう信じて見上げれば助かりました。同じように、十字架に上げられたイエスさまを見上げるなら、人は死を免れて、新たな命を生きます。救いとはそう信じることに尽きるのです。
残念ながら、当時のニコデモにはイエスさまが神の一人子であることを受け入れる準備がなく、15節が、彼が聞くことのできる限界なのでした。一方、半世紀以上後にこの福音書を書いているヨハネは、イエスさまを完全に信じています。ここまで書いて、イエスさまの本当に伝えたかったことが心に響きました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである」。世とは人間のあらゆる邪悪さの総体です。その全てを愛されたのですから、最も罪深い者でも救われざるを得ません。
にもかかわらず、裁かれて滅びる者が大勢いるのです。それはイエスさまから裁くのではなく、裁かれる者が自ら滅びに向かうのです。「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した」。救いの光が照らされるとき、多くの人が光を憎み、やみを愛して、やみのほうに向かう。自分の悪い行いに執着するからです。やみを愛する人はやみと共に滅びます。これが裁きです。イエスさまが裁きを行うのではなく、イエスさまの存在が、人が光に向かうか闇に向かうか、人にとっての裁きをもたらすのです。
逆に、救われる人は光に来ました。21節の「真理を行う者」です。光はやみに、救いは滅びに打ち勝つのです。 (井上 靖紹 長老)