律法からの自由

「律法からの自由」 2023/12/31

ルカの福音書2章22~40節

 イエス様は旧約聖書に記された律法の規定に従って生後8日目に割礼を受け、その日に「イエス」という名がつけられました。さらにその33日後、両親に抱かれてエルサレム神殿に来られました。その目的は2つあり、1つは出産した母親の「きよめの期間」が終わった時のいけにえの動物をささげるため。もう1つは「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者」(23)との規定に従って、神殿にイエス様をささげるためです。それで両親は、きよめのいけにえとして山鳩と家鳩、初子の聖別として5シェケルのお金を神殿にささげました。旧約聖書の律法を忠実に守ったのです。しかしイエス様は罪なき神の子であり、律法を守る側ではなく律法で人を裁く側ですから、ほんとうは律法に縛られる必要はないのです。それなのにちゃんと律法を守られた。それは、イエス様ご自身が律法に束縛されることによって、私たち人間を律法の束縛から解放するためです。「定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです(ガラテヤ4:4-5)。

イエス様一家が神殿に入ると、シメオンという男性がイエス様を見て、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」(28-29)と叫びます。その意味は「あなたは奴隷のわたしを解放してくださいました。」ということです。それは罪の奴隷からの解放であり、律法の束縛からの自由です。なぜならシメオンが救い主イエス様を見たからです。もともと律法から自由であったイエス様が、律法の下に生まれ、最後は「律法を破った者」として十字架にかけられたおかげで、イエス様を信じる者はもう律法で裁かれることはなく、自由に生きることが出来るようになりました。その人はもはや奴隷ではないどころか、神様の王子や王女としての身分をいただいたのです。この喜びを知った人は、誰かにイエス様のことを伝えずにはいられなくなります。長年神殿に縛られていたアンナが、イエス様を見て神殿を離れ、人々にイエス様を伝えたように。わたしたちも律法からの自由を喜んで、イエス様を伝える年に、来年させていただきましょう。

(永田 令 牧師)