これこそ、本当のイスラエル人だ

「これこそ、本当のイスラエル人だ」 2024/1/14

ヨハネの福音書1章43~51節

  本日の箇所は、イエスさまが救い主としての働きを始めるため、後の十二使徒となるピリポを弟子に迎え入れられる場面です。イエスさまはピリポを見つけて、「わたしに従ってきなさい。」と言われました。ピリポは、直ちにイエスさまに従う決心をしましたが、同時に親友のナタナエルも誘うことにしました。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」(45)。そう言ってピリポはイエスさまをナタナエルに紹介しました。つまり「救い主に会った」ということです。
しかし、イエスさまがナザレの人と聞いて「ナザレから何の良いものが出るだろう」(46)とナタナエルは言いました。ナザレはガリラヤ地方の町で、昔から「異邦人のガリラヤ」と呼ばれてきた地域です。自分自身ガリラヤ出身だったナタナエルは、自嘲気味に「ガリラヤなどから救い主が出るはずがない」と言ったのです。しかしそれはナタナエル自身が救い主を強く待ち望んでいたことの裏返しでもありました。

ピリポは「来て、そして、見なさい」(46)と言い、なかば強引にナタナエルをイエスさまのところに連れて行きました。ナタナエルを見たイエスさまは「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」(47)と言われました。それは「品行方正な聖人君子だ」という意味ではなく、「自分の心の葛藤に正直に向き合う人だ」ということです。ナタナエルが救い主に抱く葛藤する気持ちに正直に向き合い、神さまにずっと祈っていたことを、イエスさまはご存じだったのです。ナタナエルは「先生。あなたは神の子です。イスラエルの王です」(49)と告白しました。しかしイエスさまはナタナエルの告白よりもっと偉大な救い主でした。「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」(51)。旧約聖書のヤコブ(「イスラエル」という名の由来の人)が天と地をつなぐはしごを見たように(創世記28:12)、どこの国の人であっても天の神さまとつながることが出来、親しいコミュニケーションで結ばれるようになる。その実現のためにイエスさまは来られたのでした。偽りのない心で神さまを真剣に求める人は、国籍に関係なく「本当のイスラエル人」なのです。

(井上 靖紹 長老)