道を整えて生きる

「道を整えて生きる」 2023/12/10

マルコの福音書1章1~8節

  聖書日課の旧約イザヤ書40:6-8では、私たちは野の花のようなものであり、美しさに輝くひと時もありますが、神様と比べることができないほどのはかなく弱いものだと言います。その永遠の神様に対して、いつも思う疑問は、なぜ神様は、この残酷な世界に介入されないのかということです。しかし、そう思うことには誰もが陥る誤解があります。この世界を罪に満ちた世界にしたのは神様ではなく、アダム以来の内なる罪に動かされ、神様から与えられた自由を具体的に様々な罪悪を行うためのものにしたのは人間自身です。それを思うとき、神様は、この小さく弱く、罪を犯し続けている私たちに対して、どれほど忍耐をもって限りない愛を注いでくださっているのだろうかと思います。

 さらに、この神様の愛は、表面的に私たちに見えることだけではなく、私たちが理解できないこと、私たちに知らされていないことすべてに及んでいます。すべてを気が遠くなるような長いご計画のもとで導いてくださり、罪を犯した一人一人の人間のために、最終的にイエス様による救いまでも計画されたのです。そのようにして、現実に、父なる神様はイエス様を私たちの罪からの救いを達成するために派遣されました。そして、イエス様は、私たちに聖霊のバプテスマを授けて下さいました。このバプテスマは、三位一体の神様のお力によって、その人間の罪が赦され、命がまったく新しくされるというものです。

 そして、父なる神様がイエス様を地上に派遣するために、イザヤ書で記されていた通りに、まずヨハネが神様によってこの地上に遣わされました。それはイエス様が到来される前触れとして、人々をイエス様へとまっすぐ向かわせるためでした。この後、イエス様による十字架の贖いが達成され、信じられないことがこの世に成就したのです。だからこそ信仰において、私たちはこのままで赦されており、人生でどんな厳しいことがあっても平安の内に生きることができるのです。

私たちが、人生の苦しみの意味が分からなくても、そのためにイエス様を信じられなくなっても、このイエス様の十字架の贖いは、私たちのために行われた事実です。苦しみを苦しみとしか受け取れない私たちの苦しみを神様はご存じです。イエス様はそのような私たちのために犠牲になってくださいました。この十字架の救いは、私たちの人生の道のすべてに及んでおり、この人生の道を整え、道しるべとなっているのです。

 今日からでも遅くはありません。私たちのその苦しい痛み、様々なことでつぶれ倒れてしまう弱い心を神様に差し出して、イエス様と共に歩んで参りましょう。

(福田 学 師)