弱い時こそ強い

「弱い時こそ強い」 2018/8/5

Ⅱコリント12:1~10
マルコ6:1~6a

今日は平和の主日です。聖フランシスコの「平和の祈り」にある「平和の道具」となるために必要なものは何でしょうか?
今日の福音書は、イエス様が故郷ナザレで御言葉を語ったのに人々が受け入れなかった場面です。彼らはイエス様の言葉よりも、自分たちが持っているイエス様のイメージに縛られ、決してそれを捨てようとしませんでした。
わたしたちにも、聖書の言葉を「この話の結論はこう」と決めてかかったり、人にレッテルを貼って、決してその見方を変えようとしないところがあります。この頑なさが、けんかや口論、ひいては戦争の原因となるのです。
しかしわたしたち人間のその頑なさゆえに、イエス様が地上においで下さり、十字架で死んでくださいました。その血潮によってわたしたちはゆるされたのです。何と驚くべき神様の恵みでしょうか。
「アメージンググレース」は、中国語で「奇異恩典」と書きます。奇異というのは、驚きつつも、どこか怪しんでいるようなニュアンスがあります。結局、人間とは、信じながらも疑ってしまう、そのような不信仰な者です。
しかしそういう人間の「弱さ」があるからこそ、イエス様の十字架が輝くのです。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリント12:9)と書いてある通りです。自分の弱さを認めてイエス様の十字架を仰ぎ見る人は、パウロのような偉大な働きをすることが出来ます。
平和の主日の典礼色は「赤」です。この赤は聖霊の火を表しています。平和というのは人間の力で作り出すことが出来ず、ただ聖霊様の火で心が燃やされる時に平和を作り出すことが出来ます。そのために必要なもの、それはわたしたちの「弱さ」です。弱さを素直に主に告白し、悔い改める信仰です。その時弱さは強さに変えられ、わたしたちは「平和の道具」となるのです。 (永田 令 牧師)