お葬式が結婚式

「お葬式が結婚式」 2023/10/15

マタイの福音書22章1~14節

  今日のたとえ話は「王子の結婚披露宴」というたいへん縁起の良いお話です。ところが途中から非常にシリアスな展開になります。王が招待客たちに告げます。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」(4)。ワクワクするような言葉ですが、それくらい大きな喜びと幸せが天国にはあるのです。もちろん天国に本物のビフテキがあるという意味ではありません。それくらい豊かな霊的ごちそうがあるということです。じつはこの霊的なごちそうを、わたしたちはすでに「聖餐式」で味わっています。

しかし、この神様からの霊的なごちそうよりも、目に見える財産や実際のごちそうの方に魅力を感じるのがわたしたち人間です。きょうのたとえ話で、披露宴に招待されていた人たちは「畑」や「商売」に出かけ、招待を断ります。それどころか迎えに来たしもべたちを殺してしまうのです。じつに異常な対応です。これこそ人間が神様の招待に対して取っている態度です。

今日の話は「王子の披露宴」ということでした。じつはこの王子は、国民の命を救うために、犠牲となって死んだ王子でした。つまりこの披露宴は、ある意味「お葬式」と言っても過言ではありません。それなのに国民は、命の恩人である王子に感謝もせず、自分たちの用事に奔走している。…これが人間の姿です。最後までそのままなら、国王である神の怒りを免れることは出来ません。しかし「神の王子イエス様は、わたしのために十字架で死んでくださった」ということを信じて洗礼を受けるなら、その人は披露宴にいます。イエス様は死んで3日目に復活されました。だから天国の披露宴は、もはやお葬式ではありません。喜びと幸せにあふれた正真正銘の披露宴、イエス様とわたしたちとの結婚披露宴です。

きょうのたとえ話の最後で、披露宴の外へ追い出された人がいました。彼は「礼服」を着ていませんでした。しかしそれ以上に王を怒らせたのは、彼が王に「謝らなかった」ことでした。自分の罪を素直に認めるなら、神様はそれを赦し、自ら「礼服」を着せてくださいます。イエス様のいのちと引き換えに作られた「罪を覆い隠す礼服」を。

(永田 令 牧師)