新しい礎石の上で生きる

「新しい礎石の上で生きる」 2023/10/8

マタイの福音書21章33~46節

  今日の聖書日課にありますように、イザヤ書で、また詩篇で言うように、丹精込めて神様が創られ世話をしてくださったぶどうの木は、私たちにとってはこの世界のことであり、また、それぞれの人生のことでもあります。今日のマタイ21:33-41では、イエス様はぶどう園のたとえを言われます。ぶどう園はイスラエルの民であり、主人は神様で、農夫は指導者たちをたとえています。しかし、私たちにとっても人間としての在り方が鋭く問われます。それは、農夫は収穫物を奪うだけということですね。私たちの人生においても、もともと素晴らしい人生のすべてを生きるようにと神様が私たちにいのちを与えてくださったのに、上っ面の良いものだけを欲しがるのが人間です。ですから、この人生で自分が苦しむことになったのは、自分ではなく誰か他の人のせいだということで片付けてしまうなら、せっかくこれほど苦しみながら、人生で学んできた自分の傷ついた心や苦しみ悲しみを、他の日常の雑多な問題と同じような薄っぺらなものに変えてしまうことにならないでしょうか。自分の経験した忘れられない苦しみと痛み、悲しみこそが、特別のものであり簡単に否定できないものであるなら、なおさらそれは自分の人生で神様から与えられた特別な貴重なものではないでしょうか。今日のマタイの福音書では、パリサイ人たちは、主人が悪い農夫たちを殺してぶどう園を別の農夫たちに貸すだろうと言いますが、イエス様は、見捨てられた石が礎の石になると言われます。神様がなさることで、人にはわからない方法です。それまでの人生で辿った苦しみが別の方法で用いられるのです。見捨てられた石が家を立て直す礎石になるのと同じように、神様が人間の弱さを受け取ってくださり、そのどうしようもない罪の痛み苦しみから人間を救うため、この世界へと贈ってくださったのが御子イエス様です。どんなに、この悪い農夫たちと変わらない私たちであっても、神様はご自分の御子イエス様を身代わりにされ、私たちを救い出してくださったのです。このことによって私たちの状況がすぐに変わるものではありません。しかし、私たちの魂は一方的に罪なきものとされ、私たちの心は変わることができるのです。私たちはイエス様によって今までの罪を拭い去られ、義が与えられることによって新しいいのちに生きる喜びを得たのです。どんなに人を傷つけ、人から傷つけられようとも、どんなに罪深い問題を自分の中に抱えているとしても、この新しいいのちは決して傷つくことはありません。その新しいいのちにおいて生きることが可能になっているのです。今までとそう変わらない生活であっても、実質はもう違っています。その実質に伴って、私たちの歩みも変わるのです。少しずつ変わらせていただくのです。このことを信じて共に歩んでいきましょう。

(福田 学 師)