自分以外、無?

「自分以外、無?」 2023/10/1

マタイの福音書21章23~32節

  今年は「謝罪会見」の報道が多いように思います。しかしその謝罪の言葉が空虚で、自分を守ろうとしているようにしか聞こえないものもありました。

 イエス様は、全人類の罪を背負って十字架にかけられるため、エルサレムにやって来られました。そして神殿で商売していた人々を追い出したり、境内で人々に教えを説いたりされました。すると当時の宗教指導者であった祭司長や長老たちがやって来て「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」と尋ねました(23)。それに対してイエス様は「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか」(25)と逆に質問されました。彼らは内心「人から」と思っていましたが、ヨハネを信じる群衆の反発を恐れて「わからない」と答えました。まるで謝罪会見のように空虚な言葉です。彼らは「真実」よりも「自分」が大事だったのです。しかし私たちにもそのような所があります。人は誰でも「自分が中心」「自分以外は無」と考える者だからです。

 そのあとイエス様は2人の兄弟のたとえ話を語られました。「今日ぶどう園で働いてくれ」と頼む父親に対して、兄は「行きます。お父さん(直訳すると『主よ、私が』)」と答え、自分を売り込みました。しかし結局ぶどう園へは行きませんでした。自分を中心とする者は、神様に対しても周囲の人に対しても配慮のない者となるのです。ピリピ教会も「自己中心と虚栄」が蔓延した教会でした。そこでパウロは手紙を書き、あらためて十字架のイエス様に目を向けさせました。「(キリストは)ご自分を無にして、仕える者の姿をとり…実に十字架の死にまでも従われました」(ピリピ2:7-8)。

 自分を中心とし、自分以外を無としてしまう私たち人間の代わりに、イエス様は十字架で死んでくださいました。わたしたちとは逆に、「自分が無」となり、「自分以外を中心」にしてくださったのです。今日のたとえに出て来た「弟」は、最初「ぶどう園に行きたくありません」と言いましたが、あとで「悪かった」と思ってぶどう園に出かけ、父に喜ばれました。私たちも自己中心な自分を「悪かった」と認め、イエス様の十字架に立ち返る時、「自分が  中心、自分以外は無」という者から次第に「自分以外が中心、自分は無」という者へと、聖霊様によって変えられて行くのです。

(永田 令 牧師)