薄い信仰であっても・・・

「薄い信仰であっても・・・」 2023/8/13

マタイの福音書14章22~33節

 今日のマタイの箇所14:25-26はとてもドラマチックな場面です。弟子たちからすれば、湖上を歩くイエス様を幽霊だと思っても無理はありません。これに対してイエス様は、間髪を入れずに「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。では、私たちの「恐れ」はどういうものがあるでしょうか。例えば、地震や事故、病気などはそれ自体が怖いことですが、それ以上に、明日この身がどうなるかわからないということが怖いことではないでしょうか。また、難しい人間関係から来ることもあるでしょう。これらは、自分が受け身になって他から受けることが多いですが、自分の中から出てくることで、大変恐ろしいことがあります。

 それは、自分の心の内側を見れば、けっして赦されないような自分がいることに気付き、そういう自分をすべてご覧になっている神様がおられることを知ることです。

 その上で、私たちが自分の力で自分の罪を何とかできると思ったり、こんなに自分を律して生きていると思う傲慢も、神様から見れば人生の中の罪の一つであるということです。では、私たちがその恐れと罪からの救いを得るためには具体的にどうすればいいのでしょうか。今この瞬間からまじめに生まれ変わって、罪を犯さずに生きて行きましょうということでしょうか。それができないから、私たちは悩み苦しんでいるのです。

 これに対して、今日のロマ書10:5-10では、神様は私たちに対して、すでに必要な事は成し遂げて下さっており、救いのもととなるイエス様を私たちに与えて下さったと言います。ですから、ただ、私たちの心の中のイエス様に対する信仰を自ら言葉で言い表せばよいということです。イエス様がマタイ14:31で言われたように、私たちはもともと信仰の薄い者です。そのことをわかっておられながら、それでもなおイエス様は、私たちを力強く掴んで助け出して下さいます。それは、私たちが何か良いことをしたからとか、我慢したとか、人を恨まなかったとか、そのようなことではなくて、私たちが日々、罪にあるものだということを知っており、自分ではどうにもできない苦しみを背負っているからです。だからこそ、イエス様は、私たちのそのままの苦しい思いを受け取って下さり、助けて下さいます。私たちは、そのイエス様を信じて罪を告白し、赦して頂いて、私たちがまた次の瞬間から新しくいのちを頂いて生きていくことができます。そうできるようにと、神様がすべてを準備して助けて下さっているのです。

(福田 学師)