自分の十字架を負って

「自分の十字架を負って」 2017/7/23

      エレミヤ28:05~09、マタイ10:34~42

日本の夏は平和を考える季節です。ところが今日の福音書でイエス様は「わたしが来たのは地に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来たのです。」と言われました(マタイ1034)。イザヤ96で「平和の君」と呼ばれているイエス様が、なぜこんなことをおっしゃったのでしょうか?

イエス様は、「表面的な平和」や「偽りの平和」をもたらすために来られたのではなく、本質的な平和をもたらすために来られたのです。そのために一時的に「剣」も投げ込まれます。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(10:37)誰の耳にも痛い言葉です。もともと父、母、息子、娘をわたしたちに与えて下さったのは神様ですから、本当はこの言葉に従って当然なのですが、誰も従うことが出来ません。それはわたしたちが本質的に罪びとであり、神様がくださったものを神様よりも大事にしてしまう者だからです。しかしイエス様はそんなわたしたちの罪を背負って十字架にかかってくださいました。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」(1038)。「自分の十字架を負う」とは、自分の罪の現実を認めることです。そしてイエス様の十字架により頼み、日々イエス様にすがりながら生きていく、それこそイエス様にふさわしい人なのです。

イエス様について行った結果、思いがけない試練に見舞われることがあります。しかしそれを「イエス様がわたしに託された十字架」と受け止めて、黙々と背負っていくとき、その十字架の重みは、イエス様の復活の希望へと変えられ、輝く未来をもたらします。「輝く光、未来。前見て、上見て、イエス様がいるから。」(「Side of Me」) (永田 令牧師)