生きよ!

「生きよ!」2020/1/26

マタイ4:12-23

イエス様は「バプテスマのヨハネが捕らえられた」のをきっかけに、ガリラヤで宣教活動を始められました。ヨハネが捕まったのは悪いことをしたからではなく、正しいこと・・すなわち国主ヘロデの不倫を指摘したために投獄されたのでした。何と不条理なことでしょうか?

このような不条理は現代も巷にあふれています。アフガニスタンで銃撃された中村哲さんもそうです。しかしそれは「ごく一部のテロリスト」だけの問題ではなく、わたしたちすべての人間の心に潜む闇を映し出しています。わたしたちも「姦淫してはならない」「殺してはならない」「盗んではならない」等の戒めを心の中で破っており、それを指摘してくれるヨハネのような人を、国主ヘロデのように葬り去っているのではないでしょうか?

そのような人間の罪の現実の只中で、イエス様は立ち上がられました。イエス様が活動を始められたガリラヤはイスラエルの北端に位置し、様々な異邦人の影響によって、宗教的にも「暗闇の地」と呼ばれていました。そのガリラヤにイエス様という光が来られたのです。「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見た」(マタイ4:16)。

このガリラヤでイエス様が語られた最初の言葉、それは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)でした。「悔い改める」という言葉には方向転換する、と言う意味があります。「自分こそ闇の中に座るガリラヤである」と認め、心の目をイエスキリストの方に方向転換するとき、その人は暗闇から救われ、本当の意味で「生きる」者となります。イエス様がわたしたち人間の闇を背負って十字架で死んでくださり、よみがえられたからです。 「イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。──神である主の御告げ──だから、悔い改めて、生きよ」(エゼキエル18:31-32)。ヘロデのような生き方から方向転換してイエス様の方を向き、主の十字架と復活に依り頼む時、その人は自分も生き、同時に「人を生かす」人になります。イエス様と出会ったペテロが「人間を取る漁師」となったように。

(永田 令牧師)