共に歩むしあわせ

「共に歩むしあわせ」 2020/2/2

詩編133:1-3
マタイ5:1-12

「共に歩むしあわせ」…これは今年の姫路教会のあいことばです。聖書箇所は詩133:1節「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」です。

この言葉の最初の「見よ」は、「なんとまあ!」のように、強調する言葉です。「兄弟たち」というのは、同じ神様を信じる民、ということです。この詩の表題の「都のぼりの歌」というのは、いろいろな国に散らされていた神の民が、礼拝するためにエルサレムの神殿に集まっていく時の歌です。「普段の暮らしも言語も違うけれど、こうして集まって同じ神様を礼拝し、交わることが出来るなんて、なんとしあわせなことだろう」ということです。

現代の教会の兄弟姉妹も、考え方も性格もまるで違います。でもそんなわたしたちを、神様は集めてくださいました。人間的な争いや衝突はあるかもしれませんが、その交わりには不思議な「しあわせ」(ヘブル語でトーブ)と「楽しさ」(ナイム)があります。なぜならこの交わりの真ん中に、イエス様の十字架があるからです。わたしたちが相手を裁く罪を、イエス様は全部背負って十字架で死んでくださいました。そしてよみがえって、わたしたちに聖霊様を与えてくださいました。だからどんなに罪深くても「わたしは永遠の祝福をいただいている」、と大胆に宣言して良いのです。これがダビデの信仰です。表題の「ダビデによる」というのは「ダビデの信仰に立つ者の詩」という意味です。133篇の最後に「主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられた」とある通りです。 今日の新約聖書は、「山上の説教」と呼ばれるマタイ5:1-12です。「心の貧しい者は幸いです。平和をつくる者は幸いです・・」この人物像は「イエス様の自画像」を表しています。しかしわたしたちが共に集い、イエス様の十字架を仰ぎ見、共に聖餐にあずかる時、イエス様の自画像は次第に「わたしたちの自画像」になっていきます。「主に愛されたように、わたしたちも愛し合う」者になっていきます。こうして福音は周囲に広がり、やがて世界の面に実を満たすのです。

(永田 令牧師)