この人を見よ

「この人を見よ」 2019/1/19

Ⅰコリント1:1-9
ヨハネ1:29-42

「教会にしかできないこと」とは何でしょうか?

バプテスマのヨハネは、自分のほうにイエス様が来られるのを見て言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)。「小羊」とは「いけにえ」のことです。イザヤ書53章で「ほふり場に引かれて行く羊のように・・彼は口を開かない。」「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」と預言されているように、イエス様がいけにえとして十字架にかかってくださったことによって、わたしたちは罪が取り除かれ、魂がいやされました。そのようなお方であるイエス様を人々に「見よ」と言って指し示すこと、それが教会の務めです。

ではどうやってイエス様を人々に見せたら良いのでしょうか?人に何かを伝える時は、伝えたいものの素晴らしさを自分で体験していないと伝わりません。イエス様が「世の罪を取り除く神の子羊」であると指し示すには、まずわたしたち自身がイエス様に罪を取り除いていただくという経験をし、イエス様との個人的な交わりに入る必要があります。

最初ヨハネの弟子だった2人は、イエス様と共に「とどまる(ギリシャ語でメノー)」ことによって、イエス様の弟子となりました。イエス様と語らい、イエス様の恵みと救いをいただく時、人は神の国を体験し、天国がその人の中にとどまります。そういう人が「あなたも天国を経験してください」と言うから説得力があるのです。単なる情報や視聴覚教材としてイエス様を伝えても、あまり説得力がありません。 今年のあいことばは「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」(詩133:1)です。これはただ単に「教会員が集まって食事したりおしゃべりするのは楽しい」ということではありません。わたしたち皆の罪を取り除いてくださったイエス様が中心におられるから、この交わりが楽しいのです。この交わりの中で、わたしたちにも愛が生まれます。これが天国です。この天国をまずわたしたちが体験し、それを人々に見せること。これがイエス様を見せるということであり、これこそ「教会にしかできないこと」なのです。

(永田 令牧師)