麦と藁が分かれるとき

「麦と藁が分かれるとき」 2019/8/18

エレミヤ 23:23~29
ルカ12:49~53

「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。」「地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。むしろ分裂です。」今日の箇所のイエスさまは強い表現を連発されます。しかし、それに続く御言葉が注目されます。
「しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。」イエスさまは既にヨハネからバプテスマを受けておられるのに、どうしてもう一度受けねばならないのでしょう。ヨハネは、私は水でバプテスマを授けているが、後に来られる方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになると言いました。
バプテスマは一度死ぬことと死から蘇ることを表しています。死ぬことは罪の支配を終わらせること、蘇りは新しい者とされて生きることです。その心は罪との決別です。
イエスさまが火との関連で洗礼を語られるのは、水の洗礼は一度きりの形で罪との決別を表すのに対し、火は絶えず罪と戦い続ける現在進行形の決別を表すからです。罪を巡る争いでは、家族とさえ分かれることもあります。そうなったとしても、この問題で私たちのほうが歩み寄ってはなりません。火は燃え続けなければならないのです。
そして、この世の終わりに人類全体が分けられます。最後の審判です。
そのとき、多くの人は私の罪の責任者は私を作った神さまではないかと言うでしょう。しかし、神さまは既に責任を取っておられます。それがイエスさまの十字架です。
昔の漫才に「責任者出て来い!」と言って、相方が「出て来たらどないすんねん」とツッコむと「謝ったらしまいや」というのがありました。まさに責任者が出てこられたのです。謝るしかありません。もし謝らなかったら、自分で責任を取るしかありません。 このような意味でも、人々は二つに分かれます。
ですから家族が分かれることを恐れてはいけません。分かれるのは、いつか一緒になるためです。聖書は次のように言っています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

(井上 靖紹長老)