こんにちは。
教会ブロガーのマックです。
毎日蒸し暑い日が続きますねー
今日は、この春に姫路教会の礼拝で私の内に働いたことを書きますね。
教会員として3年あまりたち、私は教会内で小さな奉仕をさせて頂くようになりました。
その中の一つで、私はある時、壁面にプロジェクターで唱和する文章を映し出す奉仕をさせて頂くことになりました。
ですが、準備の時間になるとプロジェクターの機械が動きません。
私は、以前に何回かこの操作をしたことがあったので、間違いはないはずなのですが、やはり、何をやっても動きません。
そこで、いつもこの奉仕をされている姉妹にたすけをもらおうと来ていただきましたが、それでも動きません。
そうした中、ついに礼拝での唱和の時間がやってきました。
またしても失態です。
私は心の中で思いました。
「あー、また今日も上手いこといかない。どうして、私の行動はいつもこうなんだろー、他の方がやっている毎週の礼拝ではこんなことなってないのに」
その時、機械がたまたま故障したか、他の何かが悪いのかは分かりません。
でも、どうやっても動かないそのプロジェクターに、私は恨みつらみの思いを投げかけましたが、その時ふとある思いが巡ってきました。
「そうだ、ここは教会だから、神様なら礼拝を守ってくれるんでしょう?それなら私を助けてくれてもいいんじゃないですか?私の時にばっかりこんなことになってー(祈って機械が動くくらいなら世話ないけど)でもそうなら動いてください。
と、2~3回心の中で祈りました。
そして、私の微かな希望も虚しくもうやっぱり無理かとあきらめてせめて最後にもう一回とリモコンのボタンを押すと、なんとその時、壁面に使徒信条が映し出されたんです。
その時私は、喜び神様に感謝したでしょうか?
いえいえ、
私はこの時、私の信じる神様の御業に恐ろしく、血の気はひいて、疑いの自分にただただ神様に謝る言葉しかありませんでした。
私の目には涙がいっぱいで、喜びや感謝なんて忘れてしまいそうなほどでした。
それと私は思いました、考えてみると本当は私の為にこの奉仕の働きがある訳ではないことを。
私に与えられたこの奉仕は、神様の栄光がたたえられるためにあるのだと思います。
だのに、神様はそのような身勝手な私の見栄の為にその素晴らしい御業をあらわされました。
私は、この日から、神様が信仰の薄い私へ少しわかりやすい神様への祈り方を知らせて頂いたようなそんな気がしています。
ハレルヤ!