そんなヒマはないはず

「そんなヒマはないはず」 2019/6/30

サムエル記第二 11:26~12:13
ルカ7:36~50

シモンというパリサイ人がイエス様を食事に招きました。ところが彼は、足を洗う水を出したり、口づけしたり、オリーブ油を客に注ぐ・・といった当然のおもてなしをイエス様に対してしませんでした。彼は敬意をもってイエス様を招いたのではなく、イエス様を観察し、「どの程度の人物か見てやろう」という動機で招いたのです。
そこへ一人の女性が近づいてきて、イエス様の足を自分の涙でぬらし、それを髪の毛でぬぐい、イエス様の足に接吻して高価な香油を注ぎました。シモンは心の中でこの女性のことを「罪深い者」と裁き、イエス様のことも「汚れた女に足を触らせて平気とは、イエスは預言者ではない」と裁きました。このように人や神様を裁くことが、わたしたちにもあるのではないでしょうか?
わたしたちが人を裁いたり、神様を裁いたりするのは、わたしたちの心に「ヒマ」があるからです。この場合のヒマというのは「時間的余裕」のことではなく「霊的なヒマ」です。「自分は大丈夫。さほど必死になる必要はない」という、妙な安心感です。これがあると、人は神様や他人をさばきます。もし「わたしは神様の御心にかなった歩みをしているだろうか?」という気持ちが少しでもあれば、神様や人を非難するヒマはないはずです。
心にヒマが生じたダビデは、部下の妻を奪うという大罪を犯してしまいます。そしてその罪を棚に上げて、人を裁きました。しかし預言者ナタンに罪を指摘された時、ダビデは心から悔い改め、神様も彼をお赦しになりました。ダビデは救い主によって自分がゆるされたことを信じたのです。今日の福音書に登場した「罪の女」が涙や接吻や香油によってイエス様に感謝をあらわしたのも、イエス様が既に自分の罪を赦してくださったと信じたからです。決して涙や接吻や香油によってゆるしを勝ち取ったのではありません。
わたしたちももう一度、心から悔い改めて、イエス様の十字架によって罪が赦されていることを感謝し、喜びをもって人々と神様に仕えましょう。のんきに人を裁いたり神様を裁いたりする・・そんなヒマはないはずです!

(永田 令牧師)