あなたはどっち?

「あなたはどっち?」  2019/3/31

イザヤ12:1~6
ルカ15:11~32

昔から「初心忘るべからず」と言いますが、これは信仰生活にも言えることです。洗礼準備の時や洗礼後1-2年の頃は、聖書の言葉が新鮮に感じられたのに、信仰生活が長くなると「もうこの箇所は知っている」となりがちです。今日の「放蕩息子」の話も、そういう箇所ではないでしょうか?
イエス様はこの話を、パリサイ人と律法学者に向けてされました。イエス様が取税人や罪人たちと一緒に食事をされるのを、彼らが非難したからです。イエス様はまず「迷子の羊のたとえ」、続いて「なくなった銀貨のたとえ」、そして「放蕩息子と兄のたとえ」という3つのたとえをされました。「囲いの中の羊たち」「箱の中の9枚の銀貨」「放蕩息子の兄」はすべてパリサイ人と律法学者を表し、「迷い出た羊」「失われた銀貨」「放蕩息子」は取税人と罪人たちを表しています。そしてイエス様は「前者のようになるな」と教えています。
放蕩息子の兄は、ずっと父の家にいて、一見父とつながっています。しかし彼は自分のことを「父の奴隷」だと思い、父に対しても弟に対しても不満で一杯でした。一方弟は、自分が父親に対しても神様に対しても大きな罪を犯していることを認め、悔い改めて父のもとに帰りました。そんな彼を父は息子として受け入れ、最上の料理と指輪と衣装を与えたのです。
わたしたちも、礼拝に出席したり、献金をささげたり、といった「形」は守っていても、それを義務のように、いやいやしているということはないでしょうか?そんな時は心から悔い改めて、 もう一度神様のもとに帰りましょう。そうすればイエス様の十字架の血潮によってすべてゆるされ、神様の子どもとしての大きな喜びに満たされます。
わたしたちはその喜びに応えて、強いられてではなく自発的に神様と人々に仕えていくのです。そういう人が周囲を変え、日本を変え、世界を変えていきます。自分の中に喜びがなく、ただ律法的に人を攻撃する人と、ゆるされた喜びを持って人に接する人・・。周囲の人々に神様の愛を感じさせるのはどっちでしょうか?そしてあなたはどっちですか?

(永田 令 牧師)