教会に通い始めた私が、神様のことや聖書のことばをいつ頃から信じ始めたのかはよくわかりません。
でも、ほんの少し、ほんの短い間だけ、ちょっと信じていいことがあれば儲けもの。そのような今までの損得勘定の中に生まれた、ほんの小さな信仰から、神様の扉は私に大きく開かれていったのだと、今、固くそう信じています。
信仰が生まれて、その時生きていた自分の周りの殺伐とした世界観が大きく変わりました。
神様を信じ聖書を学ぶうち、私の生活態度も変えられていきました。
今まで、私の中で問題とされていたことがもはや問題ではなくなり、今まで気にも留めなかった事柄が私の中で懸案事項となっていきました。
神様の存在への疑心が、だんだん確信へと変わりました。
後から振り返ると、聖書の神様が与えてくださる私に対する応答はいつも的確でした。
そりゃあ神様なんだから当たり前です。
たとえ不謹慎な動機でも、私に神様を知りたいという心が芽生えたことは、それは神様からのみちびきがあったのです。
今でも色々なことがあって、様々な困難にぶつかることもありますが、神様は色々なことを気づかせるように、いつも私に寄り添ってくださいます。
本当に生きて働かれる神様と、信じる信仰ができて、私はずいぶんと人に優しくなることができました。
そして何よりも自分に優しくもなれるようになりました。
今は「罪赦されるって、こういう日常を過ごせるんだ」と神様に感謝する毎日です。
今神様を信じていない多くの人々も、このつたない文章を読んでくださって、今の私がとても幸せだということはきっとわかっていただけるでしょう。
そうです。
私が幸せなのは、
イエス・キリストこそが、私たちの救いの主だからなのです。
教会ブロガー「マック」