正しいプライド

「正しいプライド」2019/4/7

ピリピ3:5~11
ルカ20:9~19

今日の福音書は「ぶどう園と農夫のたとえ」です。ぶどう園で働く農夫が収穫を受け取りに来た主人のしもべたちに暴力をふるい、最後にやって来た主人の息子を殺してしまった、という話です。
先週の「放蕩息子とその兄」の話と同様、今日の話も「パリサイ人、律法学者、長老」つまり聖書をよく読んでいるはずの宗教指導者たちに向けて、イエス様は語られました。神様からぶどう園(イスラエル)を任された宗教指導者たちは、聖書を用いて民衆を正しく導くという使命を担っていました。ところが、彼らは神様をおそれることも、人を愛することも忘れ、ただ自分たちが称賛されることばかり追い求めました。神様は何度も使者(預言者)を送り、悔い改めを迫りましたが、彼らは聞く耳を持ちませんでした。なぜでしょうか?「自分たちは神に選ばれた者だ。だから指図をするな」という、妙なプライドがあったからです。わたしたちもそのようなプライドに縛られ、知らないうちに人を裁いているようなことがあるのではないでしょうか?
イエス様と出会う前の使徒パウロもプライドの塊でした。自分が生粋のユダヤ人で、ベニヤミン族の出身で、パリサイ人で、律法学者であったことを、彼は誇りました。しかし今は「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」(ピリピ3:8)。
きょうのたとえ話の最後に登場した主人の息子のように、イエス様は十字架で殺されました。その死こそ、すべての罪びとの身代わりの死です。誰でもイエス様を救い主と信じる人は新しく生まれ変わり、本当に実りある、充実した人生を送ることが出来ます。
自分の行いや知識に頼る「間違ったプライド」は人を傲慢にします。しかし、「正しいプライド」は人を謙遜にします。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6:14)。わたしたちもイエス様の十字架だけをプライドとして歩みましょう。それがわたしたちを謙遜にする正しいプライドなのです。

(永田 令 牧師)