十字架の契(ちぎ)り

「十字架の契(ちぎ)り」 2018/10/14

ヘブル2:5~9
マルコ10:1~16

パリサイ人たちがイエス様に、「夫が妻を離別することは許されますか?」と尋ねました。大変切実な質問です。しかし彼らは真剣に尋ねているのではなく、「イエスをためそうとした」と書かれています。当事者にとって辛い経験である離婚を、イエス様をためすための材料として利用する・・。ここにパリサイ人の冷たさがあります。わたしたちも、誰かの身に起こった試練について、「当事者の気持ち」を考えずに論じるようなことはないでしょうか?それでは決して真実は見えてきません。
パリサイ人の質問に、イエス様は「モーセはあなたがたに何と命じていますか?」つまり「律法には何と書いてありますか?」と言われました。人間が正しく幸せに歩むための指針である律法に立ち返りなさい、ということです。
律法は、禁止されていることがいかに悪いかを教えるものではなく、その反対がいかに素晴らしいかを教えています。たとえば「殺してはならない」という律法は「殺すことの悪さ」を言いたいのではなく、「相手を生かし、励まし、立ち上がらせることがいかに素晴らしいか」を教えているのです。今日の箇所も「離婚はゆるされるかどうか」という点をクローズアップするのではなく、「結婚とは神が二人を一人に結び合わせた素晴らしいもの」という点に注目すべきです。それでいけば、離婚は、神が結び合わせたものを引き離すことですから神様のみこころに反しています。しかし、神様のみこころに反していない人がいるでしょうか?一人もいません。だからこそイエス様が低いところにまで降りて来てくださり、わたしたち人間の代わりに十字架で罰を受けてくださったのです。このイエス様を子どものような素直な心で信じ、洗礼を受ける人は、イエス様の「花嫁」となり、永遠に祝福されます。たとえ過ちを犯してもイエス様は見捨てません。もはやその人とイエス様は、夫婦のように一心同体です。だから、その人はまるでイエス様ご自身のように律法を守ることが出来るようになり、神様と人を愛する人になって行くのです。 (永田 令 牧師)