愛の火

「愛の火」 2018/10/7

民数記11:24~30
マルコ9:38~50

先週の箇所でイエス様から「誰でも人の先に立ちたいなら皆に仕える者となりなさい」と教えられた弟子たち。しかし、どうやら彼らにはピンとこなかったようです。弟子の一人ヨハネは今日の箇所で、イエス様のお名前を使って悪霊を追い出している人たちを見て「私たちの仲間ではないので、やめさせました。」と言っています。何と傲慢で心の狭い態度でしょうか。ヨハネだけでなく、旧約聖書に出てくるヨシュアも同じように、モーセ以外の人が預言するのをやめさせようとしています。
「自分は礼拝にも出席し、献金もしているから真のクリスチャン。しかしあの人は・・・」と言って人を見下げたり、無意識のうちに人をつまづかせたりしてしまうところが、わたしたちにもあります。そのような人は「首に石臼をつけられて海に沈められた方がまし」と聖書は言っています。
しかしイエス様は、そんなわたしたちの代わりに、十字架で刑罰を受けてくださいました。海に沈められるような苦しみを、火で焼かれるような痛みを、十字架の上で味わってくださいました。このイエス様の苦しみを「わたしのためだった」と信じて洗礼を受ける人は、地獄の刑罰から免れます。その人は、もはや首に石臼をかけられて海に沈められることも、消えない火で焼かれることもありません。それだけではなく、日々御言葉を聞き、聖餐にあずかる中で、どんどん新しくされていき、地獄のような性質から天国のような性質へと変えられていきます。
「すべては、火によって、塩けをつけられるのです」(マルコ9:49)。塩気のない料理のように人をうんざりさせる人ではなく、人を喜ばせ、元気にする人になれ、と聖書は教えています。その塩味をつけてくれるのが「火」です。わたしたちのために地獄の火をくぐられたイエス様をいつも仰ぎ見、感謝をもって御言葉と聖餐をいただく人は、聖霊の火によって塩味がつけられます。それは、かつて「雷の子」だったヨハネを「愛の使徒」に変えた火なのです。(永田 令 牧師)