救い主の逆説

「救い主の逆説」 2018/9/30
マルコ9:30~37

8章で、ペテロはイエスさまを「神のキリストです。」と言いました。弟子たちがイエスさまの教えの第一段階をクリアした瞬間でした。
イエスさまは直ちに次の段階、キリストは祭司長や律法学者に殺され、よみがえることを教えられたのですが、弟子たちは全く受け付けませんでした。
救い主が、救いより先に殺されてしまう。矛盾です。そして矛盾から導かれる論理を逆説と言います。矛盾に秘められた逆説に気づいて質問してくれることを期待しましたが、弟子たちは気づきませんでした。
彼らはそれより、自分たちが理解した第一段階に立って、自分たちの中で、だれが一番偉いか議論しました。イエスさまがキリストなら王様になられる。自分たちも高い地位につくと思って、その中でもだれが一番偉いか、偉くなるかを論じあっていたのです。
イエスさまは十二弟子に言われました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、人に仕える者となりなさい。」弟子たちには矛盾としか思えません。イエスさまは一人の子どもを弟子たちの真ん中に立たせ、言われました。
「このような幼子たちのひとりを受け入れるならば、わたしを受け入れ、また、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
一人の子どもも、自分にとって尊敬すべき人と認めること。そうすることがキリストを尊敬すること、神さまを尊敬することなのです。
その延長上にキリストがいます。キリストはまさに皆を受け入れるから、皆のために死なれるのです。これが一番偉い人は皆に仕える人という言葉に秘められた逆説であり、同時にキリストが殺されることに秘められた逆説でもあるのです。
私たちは、今や大切な存在として抱き寄せられ、受け入れられたのです。その証がイエスさまの十字架の死です。
私たちも互いに受け入れましょう。お互いを、自分にとって尊敬すべき人と認め合いましょう。 (井上 靖紹 長老)