的を射た生き方

「的を射た生き方」 2018/6/03

Ⅰコリント9:24~27
マルコ2:1~12

先週の三位一体主日から教会暦は後半に入りました。この期間の日曜日は「聖霊降臨後主日」といい、聖霊を受けて主のしもべとされた信仰者たちが、主のしもべとしてますます成長していくための期間です。
4人の人が、一人の中風の人をかついでイエス様の所へやって来ました。大勢の群衆のため近づけなかった彼らは、その家の屋根に穴をあけて病人を吊り下げました。一見非常識な行動に彼らが出たのは、「この人をイエス様に治していただく」というはっきりとした目的があったからです。わたしたちも、イエス様に祈る時、漠然とした希望ではなく、はっきりとした目的を持って具体的に祈り、具体的に行動することが大切です。
ただし、わたしたちの目的と、イエス様の答えは、必ずしも一致しないことがあります。中風の人にイエス様は「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました(マルコ2:5)。これは彼らが期待した「起きて歩け」という答ではありませんでした。しかしこれこそ最も的を射た答でした。「罪」(ギリシャ語で「ハマルティア」)の本来の意味は「的はずれ」です。どんなに生活が満たされていても、神様の前に罪がゆるされていない人は「的はずれ」の状態です。
イエス様はわたしたちを「的はずれ」の状態から「的を射た生き方」に変えるために来られ、わたしたちの罪を背負って十字架で死なれ、よみがえられました。このイエス様を信じて洗礼を受ける人は罪がゆるされ、さらに日々の御言葉と聖餐によって、ますます「的を射た」人生を送るようになります。
パウロはイスムス競技大会にたとえて「私は決勝点がどこかわからないような走り方も、空を打つような拳闘もしない」(Ⅰコリント9:26)と述べています。パウロのゴール、それは人々の「罪のゆるし」です。そこに重点を置きつつ、人々の肉体的ないやしや経済的な助けも行いました。わたしたちもそれを目指しましょう。そしてそのために協力し合いましょう。これこそ的を射た信仰者の生き方であり、的を射た教会の姿です。(永田 令牧師)