キリストにつながって

「キリストにつながって」 2018/4/29

使徒8:26~40
ヨハネ15:1~10

美味しいものを食べたり、楽しい場所で過ごすことは、とても素晴らしいことです。しかしそれだけではわたしたちの魂は満足しません。「イエス様とつながる」ことが必要です。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)とイエス様が言われた通りです。
ではイエス様とつながるとはどういうことでしょうか?礼拝に休まずに出席することでしょうか?使徒の働き8章に「エチオピアの宦官」が登場します。去勢していたために、当時のユダヤ人たちから白い目で見られていた彼は、それでも創造主なる神様を礼拝するために、エチオピアからはるばるエルサレムまで行きました。本当の神様からの喜びと平安が欲しかったからです。
しかしエルサレムでの礼拝は、この宦官に喜びと平安を与えてくれませんでした。帰りの馬車の中で、彼はすがるような思いでイザヤ書53章を読んでいました。そこへ、聖霊に導かれたピリポがやって来て、その箇所からイエスキリストのことを伝えます。宦官はイエス様を自分の救い主と信じ、その場で洗礼を受け、「喜びながら」国に帰っていきました。
イエス様とつながる。それは、休まずに礼拝に出席しているかどうかや、忠実に献金しているかどうか、熱心に奉仕しているかどうかによるのではありません。「イエス様はわたしの罪のために死んで、よみがえられた」ということを信じて洗礼を受け、日々御言葉と聖餐に支えられながら、喜びをもって歩むことです。この喜びがあるからこそ、わたしたちは礼拝し、献金し、賛美し、奉仕するのです。その人は、ちょうど幹につながったぶどうの枝が美味しいブドウを実らせるように、おのずと実を結びます。そしてその実で他の人々を喜ばせ、笑顔にすることが出来ます。その人自身の力ではなく、今も生きておられるイエス様ご自身の力によって。(永田 令牧師)