商売とサービス

「商売とサービス」 2018/3/4

出エジプト20:1~17
ヨハネ2:13~22

今日は四旬節第3主日。イエス様が神殿の境内で商売をしていた人々の店をひっくり返した、「宮清め」と呼ばれる出来事について学びます。この出来事は、イエス様が地上に来られた目的をよく表しています。
イエス様の怒りの原因は何でしょうか?2:16で「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」とおっしゃっているので、「神聖な神殿で商売をした」ことを怒っておられるのでしょうか?そうではありません。ここでイエス様が追い払った牛や羊は、神殿でささげる「いけにえ」の動物です。また両替人の台は、献金用にローマ貨幣をユダヤのシェケルに両替するためのものです。すなわち、いけにえやお金などの「代償」と引き換えに、神様の恵みを「商品」として受け取る、という「商売のような礼拝」に対して怒っておられるのです。
神様の恵みや救いは、商売によって手に入れるものではありません。サービスです。無料です。イエス様がわたしたちの身代わりに十字架で死んでくださったことで、支払うべき代償は既に支払われているからです。だからわたしたちは礼拝で救いの約束を聞き、聖餐で新たに罪の赦しをいただき、喜び、歌い、感謝のささげものをする。それが本来の礼拝です。礼拝を「サービス」というのはそのためです。人間が神様にサービスするのではなく、神様が人間にサービスしてくださるのです。
この神様からのサービスを存分に受け取った人は、今度は自分自身が他の人々に「サービス」する者となります。その時の指針となるのが、「十戒」に代表される律法です。「殺してはならない」「盗んではならない」・・これらの律法を、「神の恵みをいただくためのいけにえ」と考えると苦しくなります。そうではなく、律法を守れないわたしたちの身代わりにイエス様が死んでくださり、よみがえられた。そのことに感謝して、少しでも他の人々の助けとなる生き方をしていこう、相手の見返りを期待せずに、ただ相手にサービスしていこう・・そういう生き方の指針が律法なのです。そこに、見返りを受ける以上の喜びがあります。 (永田 令牧師)