星のよろこび

「星のよろこび」 2018/1/7

イザヤ60:1~6
マタイ2:1~12

明けましておめでとうございます。今日は「顕現主日」。東の国の博士たちが幼いイエス様を礼拝したことを記念する日曜日です。
この博士たちはユダヤ人ではなく「東の国」、つまり外国の人でした。しかも「博士」というのはギリシャ語の「マゴス」という言葉で、「マジック」の語源にもなっており、「魔術師」とか「占い師」という意味があります。
外国人でその上マゴスとなると、ユダヤ社会では「汚らわしい罪びと」とみなされる人たちです。そんな彼らがはるばる東の国からやって来て、幼いイエス様を礼拝し、高価な贈り物をささげました。一方、旧約の時代から神様を知っており、「自分たちは神に選ばれた民である」と豪語していたユダヤ人たちは、イエス様の誕生に不安と疎ましさを感じています。彼らは救い主よりも、自分たちの暮らしや都合の方が大事だったのです。わたしたちにもこのユダヤ人のようなところがあるのではないでしょうか?
しかしわたしたちがそのような傲慢な者だからこそ、イエス様ご自身が低く低くへりくだり、十字架の死にまで落ちて下さいました。その死と復活によってわたしたちは救われたのです。誰でも素直な心でイエス様を信じ、洗礼を受け、聖餐にあずかる人は、たとえ人間的には傲慢な者であっても清い者、謙虚な者とみなされます。
それだけではありません。その人は、まるで博士たちを救い主のもとに導いた星のような、大きな働きをすることが出来ます。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」(イザヤ60:1)。この光は、その人の中から出ているのではなく、神様の光を照り輝かせている光です。この光を放つために「起きよ」・・すなわち目を開いて十字架のイエス様を仰ぎ見る必要があります。そのとき、わたしたちは主の光を放ち、星のように人々をイエス様のもとへ導く者となります。そこにわたしたちの喜びがあるのです。 (永田 令 牧師)