小さなキリストとして

「小さなキリストとして」 2018/1/14

イザヤ42:1~7
マルコ1:9~11

今日は「主の洗礼日」です。神の御子であり、罪のないイエス様が、なぜ「罪のゆるしのため」の洗礼をお受けになったのでしょうか?そのヒントはマルコ1:11にあります。
「そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」この神様の声は、前半が旧約聖書の詩篇2:7、後半がイザヤ書42:1の言葉となっています。
詩篇2:7は「王の詩篇」と言われている箇所で、そこに描かれた「王」は、力と正義で人々を裁き、「鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々に」(詩2:9)します。このように、本来神様は罪人をおゆるしになりません。罪は罪として徹底的に裁かれるお方です。
しかし、後半のイザヤ書42章には、さきほどの「王の詩篇」とは全く違う人物像が出てきます。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。」これは「主のしもべ」と呼ばれる人物をイザヤが預言したもので、そのしもべは最後には羊のようにほふられ、静かに死んでいきます(イザヤ53章)。
このしもべとは誰でしょうか?そう、イエス様です。イエス様は、力と正義に満ちた王様であると同時に、弱き者に寄り添い、傷んだ葦を立ち上がらせ、消えかかった炎を燃え立たせてくださるお方です。本当ならば裁かれるべきわたしたちのために、イエス様ご自身が十字架で倒され、その炎を消されました。その死と復活によってわたしたちの罪はゆるされたのです。
イエス様の洗礼は、イエス様が王であるにもかかわらず、罪人と同じ者になられたことを意味しています。だからわたしたちは、洗礼を受けることによって罪人として死に、「小さなキリスト」としてよみがえります。そして「神の王子」となり、「神のしもべ」として生きるのです。傷ついた人に寄り添い、その人のために祈る。その時イエス様ご自身がその人を立ち上がらせてくださいます。 (永田 令 牧師)