二つの義

「二つの義」 2017/10/29

    ピリピ3:12~16
    マタイ22:1~14

ちょうど500年前の1517年10/31にマルチン・ルターがヴィッテンベルグ城教会の壁に「95か条の提題」を張り付けたことが宗教改革の始まりでした。ルターが再発見した福音、それは「神の義は、何かとの引き換えに与えられるのではなく、一方的に、神様からの恵みとして与えられる」ということでした。
今日の福音書で、天の御国が結婚披露宴にたとえられています。 神の国には結婚披露宴のような喜びと幸せがあります。しかし招待された人たちはその招待を断り、畑や商売に出かけて行きました。これは神からの預言者を拒んだユダヤ人を表し、同時にわたしたち全人類の姿を表しています。そのような者は、本当は「滅ぼされ、焼き払われる」(22:6)運命にありました。
しかしわたしたちが滅ぼされる代わりに、神の御子イエス様が十字架で罰を受けてくださいました。「良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めた」と10節にあるように、神の国(イエス様)の方から人間をつかみ、宴会へと引っぱり込んでくださったのです。誰でもイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるなら、神の国の宴会に入ることが出来ます。
今日の箇所に、一人だけ宴会から追い出された人がいました。礼服を着ていなかったからです。「礼服」とはイエス様ご自身のこと、「着る」とは洗礼を受けるということです。「バプテスマ(洗礼)を受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ3::27)。洗礼を受けてもわたしたちは罪びとであり続けます。しかし汚れた体の上に「キリストを着て」いますから、堂々と神の前に立つことが出来るのです。
神の義(受動的な義)を着せていただいた人は、聖霊の力によって、「能動的な義」を行う者となります。それはもはや「義とされる」ためではなく「義とされたからこそ義を行う」のです。パウロもルターも、神様から義とされた喜びをもって、精力的に活動しました。わたしたちも日々聖書を読み、祈り、聖餐にあずかり、悔い改めつつ、自分のやり方で神様と人々にお仕えしましょう。そのとき人々は、あなたを通してキリストと出会うのです。 (永田 令師)