人生の意味

「人生の意味」 2017/11/5

エゼキエル37:1~14
ヨハネ15:1~17

今日は召天者合同記念礼拝です。中世の修道士たちは、互いに「メメント・モリ」(自分が、いつか必ず死ぬことを忘れるな)という挨拶を交わしました。日々「死」を見つめ、そのための備えをしている人こそ、実りある「生」を生きることが出来るのです。
イエス様は「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません」(ヨハネ15:4)と言われました。それと同じように、人間も「木」から離れては実を結ぶことができません。「木」とは人間を造られた神様です。神様から離れた人生は、たとえ経済的に豊かでも、仕事で成功を収めても、「枯れた枝」とみなされ、最後には「寄せ集められて火に投げ込まれ」てしまいます。
旧約聖書エゼキエル書37章に「干からびた骨」の幻が出てきます。この骨も、神様から離れた人間の状態を表しています。しかし、この干からびた骨に神の言葉が語られ、神の息が吹き込まれた時、その骨は人間としてよみがえりました。このように、わたしたちも神の言葉によってよみがえることが出来ます。それは聖書を通してイエスキリストと出会うことによってです。イエス様はわたしたちすべての人間の罪を背負って十字架で死なれました。わたしたちの代わりに「枯れた枝」として処分されたのです。そして3日目によみがえられました。このイエス様の死と復活が自分のためであったと信じる人は、どんなに枯れた状態であっても神の息によってよみがえり、神と人のために実を結ぶ人生を送ることが出来ます。これが人生の意味であり、わたしたちの最終的な目的です。
人生の「春~夏」は自分で何でも出来る時期ですが、「秋~冬」は次第に出来ることが減っていきます。一見寂しい季節に見えますが、じつはその時こそ本当に豊かな人生を歩むチャンスです。自分の力ではなく、神様に頼るようになるからです。「神との出会いは、人間存在の大事件です。この出会いは唯一の、決定的な出来事です。神と、その恩恵、その救いを知ること、これが人生の意味です」(ポール・トゥルニエ「人生の四季」より)。 (永田 令師)