喜びの生き様

「喜びの生き様」 2017/10/22

   ピリピ2:12~18
   マタイ21:33~46

今日の聖書箇所では、祭司長やパリサイ人たちがイエス様に対して怒りを燃やしています。なぜなら、それまで自分たちが築き上げてきた地位や、誇りにしていたものがイエス様によって脅かされ、否定されてしまったからです。ぶどう園のたとえ話は、神様とイスラエルに建てられた指導者である祭司長やパリサイ人について書かれています。神様は、ぶどう園の主人のように愛をもってイスラエルを造られましたが、その民を正しく導くはずの指導者たちは御心から離れ、自己中心に民を導き、イスラエルを自分の物にしようとしました。それでも神様は民が立ち返ることを願い、御子イエス様をこの地に送ってくださいましたが、人々は、その救い主イエス様が自分たちの思い描いた姿ではなく、むしろ怒りや妬みを引き起こさせる存在であるがゆえに「必要ない」と十字架に捨ててしまいました。これは私たち全ての人の罪です。そして、このように御心から離れ、自己中心に生きる先には、神様の怒りと罰による永遠の滅びがあるのです。
しかしここに、私たちの目には不思議な救いの御業が成されました。「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」この御ことばの通り、イエス様の十字架の死こそが、私たちの救いの礎となりました。なぜならイエス様の十字架は、本来私たちが受けるべき罰であり、イエス様が私たちの身代わりとなって、怒りも悲しみも死も全て担ってくださったからです。そして、その全てに打ち勝ち、復活されました。このイエス様の一方的な恵みの救いを信じるなら、私たちは罪赦され、救われます。ただ、私たちはこの地に生きる限り、相変わらず罪を犯し、困難に遭い、怒りや悲しみを抱えるものです。しかし、復活のイエス様が共に生きてくださり、御ことばを通して、決して揺らぐことのない救いの礎、喜びを与え続けてくださいます。そして、この喜びの内に生きる信仰者の生き様は、この世の暗闇に輝く光として、イエス様をお証していくのです。 (高橋 恵 聖書学院生)