自由の喜び

「自由の喜び」 2024/2/25

マルコの福音書8章31~38節

 ロシアによるウクライナ攻撃も、イスラエルによるガザ攻撃も、いっこうに終わる気配がありません。特にイスラエルの行為は、同じ旧約聖書を持つ者として、とても心苦しい気持ちになります。もともとユダヤ人の先祖イサクと、アラブ人の先祖イシマエルは、同じアブラハムから生まれた兄弟なのに、なぜユダヤ人はアラブ人を「下」に見るのでしょうか?それはイサクがアブラハムの正妻でユダヤ人のサラから生まれたのに対して、イシマエルはサラの女奴隷でエジプト人のハガルから生まれたからです。そして聖書も一見、イシマエルよりもイサクの優位性を語っているように見えます。しかしそれは民族的な優位性ではなく、イサクを「自由の子」の象徴、イシマエルを「奴隷の子」の象徴として書いているのです。「奴隷の子」とは、神様に認められるためには自分の正しさや善い行い(律法の実行)が必要だと思っている人です。しかし人間には生まれつき罪があるため、自分の行いによって神様から認められることは不可能です。ユダヤ人も同じです。しかし誰であっても、自分の罪を認めて、イエス様がその罪を背負って十字架で死んでよみがえられたことを信じる人は、「自由人」です。ユダヤ人もアラブ人も関係ありません。

ペテロがイエス様のことを「キリスト(救い主)」と告白した時から、イエス様はご自分の死と復活を予告し始めました。それが「キリスト」の一番重要な務めだからです。それを聞いてペテロはイエス様をいさめました。するとイエス様は「下がれ。サタン。」と厳しくお叱りになりました。イエス様が十字架にかかることを妨げるのは「わたしは自分の力で天国へ行けます。」と言っているに等しいからです。クリスチャンもそう思ってしまう傾向があります。イエス様にゆるされていることを疑い、「今度ばかりはゆるされまい」と思ってしまうのです。しかしそれは、車に乗せてもらったのにまだ荷物を背負っているようなものです。それを見て運転手は喜ぶどころか、悲しみます。いつも自分の罪を悔い改め、御言葉と聖餐によってイエス様のゆるしを思い起こす人は、本当の「自由人」であり、その手や足を神様と他の人のために自由に使うことが出来ます。それは苦しい生き方ではなく、喜びにあふれた生き方です。

(永田 令 牧師)