福音の光

「福音の光」 2024/2/11

マルコの福音書9章2~9節

  創世記の最初に、神様が「光あれ」と言われました。そして、光とやみを区別されました。「光」は、物理学上の基本粒子として重要なものですが、第Ⅰヨハネ1:5で言うように、神様や神様のお力そのものとして語られる大切なものです。心の世界では光と暗闇が混ざり合っていますが、私たち自身では、自分を真っ白に拭うことができません。私たちのきりのない、泥沼のような人間の悪、絶望感は表現できないほどの大きさに広がっています。

しかし、そのような絶望的な状況でも必ず希望があります。これは、単に言葉で慰めようとしていることではなく、神様の光が現実に私たちの心を照らす光になっているからです。光は、神様のおられる世界につながっています。み言葉が語るように、「光」そのものが神様によって創られ、神様が用いられ、時には神様そのものとして、私たちの心と魂を照らし、そこにある陰の罪を明るみに出すとともに、心と魂を新しい強いものとしてくださり、私たちを、聖なる義しい世界へと導いてくれるのです。

今日のマルコ9:2―9の箇所からわかることは、この時に至っても、3人の弟子たちはイエス様が人間を超えた特別なお方であることがわかっていなかったことです。私たちもイエス様が本当に神様のひとり子として 特別なお方であるとわかっているでしょうか。マルコ9:7で言われるように、イエス様は、人間でありながら完全な神様のひとり子です。

そして、詩篇50:5では、「わたしの聖徒たちをわたしのところに集めよ。いけにえにより、わたしの契約を結んだ者たちを。」とあり、時を超えて私たちもその契約に預かった者なのです。私たちにとってのいけにえがイエス様であり、イエス様の十字架の贖いによる救いに預かることができました。

私たちの罪が重いからこそ、その罪の中でどうしようもない苦しみの中にあるからこそ、救いの福音の光として、私たちの元へとイエス様は来られました。そのことを改めて、くり返し心に思いとどめながら、信仰と祈りの生活を続けましょう。私たちの中に必ず光が宿り、ついには心の中の暗闇が吹き払われる時が来ます。第Ⅱ列王記2:2―6で、エリシャは、実に3回もエリヤに同じ言葉を繰り返しました。私たちも繰り返し、「私は決してあなたから離れません」とイエス様に言おうではありませんか。神様の光を浴びながら、その光を頂いて、心の内に新しいいのちの輝きを取り戻しましょう。

(福田 学 師)