あかしするために

「あかしするために」 2023/12/17

ヨハネの福音書1章6~8、19~28節

 バッハが現在のような「音楽の父」としての地位を確立したのは、後の時代にメンデルスゾーンがバッハを人々に紹介したからと言われています。

 イエス様が来られた時も、当時の人々は誰もイエス様のことを知りませんでした。そのイエス様を人々に紹介したのがバプテスマのヨハネです。イエス様を紹介するにあたり、バプテスマのヨハネは徹底して「私はキリストではありません」と言明しました(20)。当時、ヨハネの名はユダヤ全土に知れ渡り、国会議員級の人々までヨハネのことを調べにエルサレムからやって来たほどでした。「ある意味、わたしも救い主(キリスト)と言えるかも」とヨハネが思ったとしても不思議ではありません。そういう誘惑は誰にでもあります。しかしヨハネは「自分はキリストではなく、声だ」と言いました(23)。「声」というのは誰かに何かを伝えるものであり、伝え終わったら消えてゆきます。声自体には人を救う力はありません。ただ、「救う力のある人」を紹介することは出来ます。ヨハネはそれをしたのでした。「悔い改めよ」「主の道をまっすぐにせよ」と言って人々の心を整えたあと、イエス様を指し示してこう言ったのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(29)。イエス様はわたしたち人間の罪を取り除くためのいけにえの小羊として、十字架にかかって死んでくださいました。このイエス様のもとへ行き、イエス様をキリスト、救い主として受け入れる時、誰でも救われ、心の傷も癒されます。救いと癒しを与えることが出来るのはイエス・キリストだけです。ヨハネでもわたしたちでもありません。

しかしイエス様のことを知らせる「声」になることはできます。バプテスマのヨハネやメンデルスゾーンのように。「イエス様が私を救ってくださった。十字架でわたしの罪を取り除いてくださった。」ということを知っている人は、誰でもイエス様をあかしすることが出来ます。人々をイエス様に導く声になることができます。それはただ言葉だけではなく、音楽や、料理など、ありとあらゆる方法がイエス様に導く声になります。自分らしい方法で、自分を伝えるのではなくイエス様を伝え、イエス様をあかししましょう。そのためにわたしたちは、今いる場所に遣わされたのですから。

(永田 令 牧師)