許しと赦し

「許しと赦し」 2023/9/17

マタイの福音書18章21~35節

ペテロがイエス様に質問しました。「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」(21)。「兄弟」というのは肉親の兄弟ではなく「教会の兄弟姉妹」、つまり信仰の仲間ということです。教会に属していても人間ですので、同じ過ちを何度も繰り返してしまうことがあるわけですが、やられる側はやはり腹が立ちますよね。しかもペテロが言った「七度」というのは、当時ユダヤ教で教えられていた「三度」に比べたら寛容な方です。しかしイエス様の答えは「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」でした(22)。文字通り受け取ったら490回です。それでも十分すごいですが、ユダヤでは7は「完全数」ですので、「七を七十倍」というのは490回ではなく「無限に赦しなさい」という意味です。つまりペテロが言っている「ゆるし」は、何度か許容するだけの「許し」であり、イエス様のおっしゃる「ゆるし」は、無限の「赦し」なのです。「赦しが存在するのはまさに、いかなる許しも許すことができないものを赦すためである」(ホロコースト生還者ジャンケレヴィッチの言葉)。

しかし本当に「いかなる許しも許すことができないものを赦す」ことが出来るのは神様だけです。神様の赦しが、いかに想像を超えたものであるかを教えるために、イエス様はたとえ話を語られました。あるしもべが王様に1万タラント(16万年分の給料)の借金をしてしまうのですが、王様は彼を憐れんで、全額赦免してくれました。「16万年分の負債」は、人間が神様に犯している罪の重さを表しています。その罪が、イエス様の身代わりの十字架におかげで、全部赦されたのです。そのことのありがたさを、私たちはどの程度理解しているでしょうか?このたとえ話で王様から負債を免除されたしもべは、今度は自分が100デナリ(3か月分の給料)を貸している友人に出会いますが、彼を赦さず、牢屋に放り込んでしまいます。「自分が赦された」ことを彼は信じていなかったのです。それで結局王様から罰を受けました。

いかなる許しでも許されないはずの自分がイエス様の十字架によって赦されたことを信じ、心から感謝する人は、聖霊の力によって、いかなる許しでも許されないような相手を、不思議にも「赦す」ことが出来るようになるのです。

(永田 令 牧師)