究極のへりくだり

「究極のへりくだり」 2023/4/2 四旬節第6(受難)主日礼拝メッセージ

マタイの福音書27章33~54節

きょうは受難主日です。今週の金曜日(受苦日)、イエス様は十字架にかけられました。この十字架の出来事が「あたりまえ」になってしまっていませんか?もしイエス様の十字架がなければ、私たち自身が十字架にかからなければならないところだったのです。

マタイ27章前半にバラバという囚人が出てきます。彼は犯罪者でしたが、民衆のために暴動を起こしたヒーローだった可能性もあります。人間の視点だけで見たら、善人と悪人の境界線など実にあいまいなものです。しかし神様の目から見たら、民衆も、権力者も、バラバも、私たちも、みんな罪びとです。罪とは「何か悪いことをした」ことではなく、創造主なる神様から離れて自分勝手に生きていること自体が罪なのです。だからどんな「善人」であっても、神様から見たらバラバ同様、死刑が確定した囚人と言えます。

ところがそのバラバが突然釈放されたのです。何か良い事をしたわけでもなく、莫大な保釈金を支払ったわけでもありません。ただ自分がかかるはずだった十字架に、イエス様がかけられただけの理由です。これこそまさに私たちに起こったことです。神様の目に罪びとでしかない私たちが、イエス様と入れ替わって自由をいただきました。そのことをあらためて喜びましょう。

こうして罪と死から自由にされた私たちは、この自由を「神の奴隷」として使うことを神様は喜ばれます(Ⅰペテロ2:16)。そのために神様は、私たちに聖霊様を与えてくださいました。聖霊様によって私たちは、イエス様に似た者、すなわち、へりくだって、自分のことよりも他の人の喜びと幸せのために生きる者へと変えられて行きます。きょうの十字架の出来事は、一つ一つ正確に旧約聖書で預言されていました。さらにイエス様が息を引き取られた時、神殿の幕が裂け、地震が起こり、死者が復活しました。そのような偉大な神の子が、自らを捨てて十字架で死んだのです。その事実に異教徒のローマ兵たちは打たれ、イエス様を神の子と告白しました。私たちも自由の身とされたことに感謝して、へりくだって、この自由を他の人々のために使いましょう。その時、人々はイエス様への信仰告白へと導かれることでしょう。

(永田 令牧師)