いのちを選ぶ

「いのちを選ぶ」 2023/2/12 顕現後第6主日礼拝メッセージ

マタイの福音書5章21~37節

人間は、まさに、罪を犯す者です。しかし、そう言われても、何か、自分はそこまでではない、という安心感も心のどこかにあるのではないでしょうか。でも、本当に人間は罪ある者だということが、今日のマタイ5:21~36でイエス様が指摘されている問題点でわかります。親や兄弟など、家族に向かって腹を立てたことのない人がこの世にいるでしょうか。また、人に向かって悪口を言うことも、程度の違いこそあれ、自分が正しく、正義だと思っている場合でも、批判がすぐに悪口になってしまうものではないでしょうか。

 Ⅰコリント3:1-3でも、パウロは、当時の信徒たちに対して、あなたたちは肉に属しているただの人だと言います。これも、現実の私たちにとって、今も変わっていないことです。「ただの人」は、日々、罪を犯しながら、肉に属して生きる私たちそのものです。

 詩篇119:1-5でも、人生は、主の道を歩むことだと言い、神様の導きに従うなら、神様は私たちを助け、祝福して下さると言いますが、私たちは、主の道を歩むことなく、いつも主に歯向います。それが、神様が私たちの目の前に置かれた「のろい」を選んでいることです。マタイ5:21-36では、イエス様は、人間の具体的に愚かな行状をいくつかかいつまんで語られ、人々にその愚かさを指摘されます。イエス様は、身近なことから人間の愚かさを指摘されます。結局、現実の人間の日々の生活は、イエス様が言われるとおりのものです。それでも、助けの御手を伸ばしてくださるのがイエス様です。そして、最も大きな助けこそ、イエス様御自身が私たちの罪の身代わりになられたということです。

 この助けが私たち一人一人に現実にあるので、もう、今までの自分の犯した数えきれない罪の罰を気にすることなく、安心して、目の前に与えられる「いのち」の方を選べばよいのです。私たちは、これからも失敗するでしょう、罪も犯すでしょう。でも、その罪からイエス様が解放して下さいました。そして、日々、神様が私たちと共にいて下さるので、人生の次の瞬間から、また、新たに主の道を歩むことができます。私たちに本当の絶望はありません。誰でもいのちへと続く希望が常に眼の前に置かれています。このことを神様に感謝しながら、この人生の先へと、共に進もうではありませんか。

(福田学師)