平和のための同志

「平和のための同志」 2017/8/6

      エペソ02:13~18、ヨハネ15:09~12

今日8月の第一日曜日は「平和の主日」です。さきほどフランシスコの「平和の祈り」の中で、「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください」と祈りました。「平和な世の中にしてください」ではなく「平和の道具として私を用いてください」という積極的な姿勢が必要なのです。

平和の道具となるために欠かせないこと、それは、まず自分自身がイエス様から愛されていることを知り、心が喜びと平安に満たされていることです。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9) イエス様の十字架と復活によって、わたしたちは無条件で罪がゆるされ、神様と和解させていただきました。そのことを、御言葉と聖餐によって繰り返し心に刻むこと、これが「イエス様の愛にとどまる」ということです。

イエス様の愛にとどまる時、わたしたちの心に天国のような喜びが満ち溢れます。この喜びが、他の人を愛する原動力となるのです。わたしたち自身の中から出てくる愛には限界がありますが、どんなに愛のない者もイエス様は愛してくださり、その人の罪を十字架で滅ぼしてくださいました。もう何もしなくてもいいのです。でも、だからこそ何かがしたくなる。イエス様の愛に応えて、平和の道具として働きたくなるのです。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(エペソ2:14-15)

イエス様の十字架は、神と人との間の壁だけでなく、人と人との壁をも打ち壊しました。これは感情ではなく真理です。感情レベルでは相手に対するしこりがあったとしても、わたしたちは聖書が告げているこの真理をただ信じるだけです。そこに、平和の道具となるための秘訣があります。せっかく神様から与えられたいのち(=時間)ですから、その時間を有効に使い、「平和のための同志」として、共に祈り、共に働きましょう。 (永田 令牧師)