麦か?毒か?

「麦か?毒か?」 2017/8/13

ローマ8:26~30、マタイ13:24~35

イエス様は多くのたとえを用いて神の国の話をされました。神の国は本来、人間の目には「隠されたもの」なので、身近なものにたとえなければ、誰にもわからないからです。
今日の1つめは「麦と毒麦」のたとえです。麦と毒麦はよく似ているため、毒麦だけ抜こうとしても、間違えて麦まで抜いてしまいます。それで主人は収穫の時までどちらも育つままにしておき、収穫時に両者を分けます。成長後は区別しやすいからです。同じように、天国に行く「神の国の子たち」と、地獄に行く「悪い者の子たち」は、地上では区別がつきません。優しくて、誰の目にも麦に見える人が、じつは毒麦だったりするのです。
本当の麦、それは、優しい性格とか、平和主義者とかいうことではなく、自分の罪を認め、イエス様がその罪をゆるすために十字架で死んで、よみがえられた救い主であることを信じる人です。この信仰に立つ人は、どんなに名もなき人であっても、その働きはどんどん拡大して、多くの人に憩いを与え、おいしい「いのちのパン」を提供することが出来ます。今日の2つめ、3つめのたとえはそのことを教えています。すべてのたとえは総合的に神の国の姿を伝えているのです。
ルターは「祈りと、瞑想と、試練が神学者をつくる」と言いました。信仰を育てるためには、祈りと御言葉の瞑想に加えて、試練が欠かせません。イエス様が毒麦をすぐに引き抜かない理由は、毒麦も悔い改めて、よい麦に変わるのを待っておられるからです。そしてもう一つは、その毒麦に苦労させられることで、麦自体の信仰を育てるためです。それによって、神の国はますます拡大し、さらに多くの実を結ぶことが出来ます。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28) (永田 令牧師)