どっちなんだい!?

「どっちなんだい!?」 2022/10/16 聖霊降臨後第19主日礼拝メッセージ

ルカの福音書18章1~8節

10月も半ばとなりました。あと1ケ月もすると教会暦の終わりを迎え、イエス様の再臨(=世界の終わり)について考える季節となります。

今日の箇所に「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」とあります(1)。これは祈りながら再臨を待ち、「主イエスよ、来てください(黙示録22:20)」と祈り続けなさい、ということです。

きょうの話でイエス様は、愛の神様をなんと「悪徳裁判官」にたとえました。血も涙もない裁判官でも、貧しいやもめの訴えが「うるさくて仕方がないから」その願いを聞き入れた。ましてや神様がわたしたちの祈りを放っておかれるはずがあろうか」ということです。でも神様はこの裁判官のように、「うるさくて仕方がないから」わたしたちの祈りを聞いてくださるのではありません。神様は既に、イエス様をいつ送るか、わたしたちの願いをいつどのように聞くか、すべて決めておられます。しかし、否、だからこそわたしたちは祈り続けるべきなのです。その時わたしたちは、自分がいかに不信仰か、いかに弱いかを知り、イエス様の十字架の救いの素晴らしさ、ありがたさを知るからです。それこそ神様が一番望んでおられることです。

旧約聖書創世記32章に、ヤコブが「謎の人」と夜明けまで格闘する場面があります。ヤコブは兄エサウの「長男の特権」を奪った人物、「謎の人」は神の使いと思われます。この戦いは、神様を信じているのかいないのか、「どっちなんだい!?」というわたしたちの祈りの格闘を表しています。その格闘の中で、わたしたちはイエス様の十字架の力を改めて知り、「こんな罪深いわたしがゆるされている!」という深い喜びと平安に至るのです。これこそ「主イエスよ、来てください」の答です。だからこれからも失望せずに祈り続けましょう。「信仰というのは、どこまでもそれは不信と連れ添っている、蔭のようなものだと思う。…不信と言われようが神にしかられようが、そう言わずにはいられない、どうか言わせてくださいという、そういうものであり、ここに真の祈りの姿勢がある」<榎本保郎> 

(永田 令 牧師)