行き先を変えよう

「行き先を変えよう」 2022/10/9

ルカの福音書17章11~19節 聖霊降臨後第18主日礼拝メッセージ

本日の箇所は、イエスさまが十人のツァラアト(重度の皮膚病)の患者と出会われた場面です。当時、ツァラアト患者は家族と別れて村はずれで暮らし、他の人と行き会えば「汚れている、汚れている」と言って、自分がツァラアトであることを知らせなければなりませんでした。

十人は村に入ってきたのが名高いイエスさまであることに気づき、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と叫びました(13)。するとイエス様は「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と言われました。祭司に体を見せに行くのはツァラアト患者が回復した時の処置です。それを先にさせて、イエス様は彼らの信仰を促されたのです。彼らは祭司のもとに向かい、幾らも行かないうちに、ツァラアトは清められました。

ところが「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。」とあります(15-16)。イエス様は「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻ってきた者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」と言われました。旧約聖書にナアマン将軍というアラム人のツァラアトが癒される場面がありますが、イエス様のもとへ帰って来たサマリヤ人も外国人でした。外国人の信仰が決してユダヤ人に引けを取らないことをイエス様は示されたのです。

御言葉に従って癒しのわざを体験することはすばらしいことです。しかし、それだけなら一過性のことです。イエスさまの目的は、罪によって滅びる運命からわたしたちが救われて、永遠の命を持つことです。これが本当の救いです。このサマリヤ人も、ナアマン将軍も、そのことを理解しました。戻って来なかった九人は、祭司に体を見せに行ったのかもしれませんが、それよりもまずすべきこと、それはこのサマリヤ人がしたように、神さまへの賛美と、祈りと、感謝でした。そのためには、一度行先を変えないといけません。イエスさまのところへ行き、心にイエスさまを持ち、その後で自分の道を進みましょう。その人生は、イエスさまと歩む人生であり、その人はもう天国に入っているのです。

(井上 靖紹 長老)