それでいいのか?

「それでいいのか?」 2022/9/25 聖霊降臨後第16主日礼拝メッセージ

ルカの福音書16章19~31節

今、世界中の17歳以下の子どもたちの6人に1人が極度の貧困状態にあり、一方で世界の最も裕福な1%の人が世界全体の富の約33%を持っていると言われています。今日のイエス様のたとえ話は、このような格差社会に警鐘を鳴らしているような話です。毎日楽しく遊び暮らしていた金持ちと、その門前で飢えていたラザロという貧しい人。やがて2人が死んだ後、ラザロはアブラハムと共に天国におり、金持ちは地獄にいました。なぜこのような結果になったのでしょうか?生前裕福に暮らした人は地獄に行き、生前貧しかった人は天国に行くのでしょうか?しかしラザロと共に天国にいるアブラハムも生前は裕福でした。

ではこの金持ちが門前のラザロをあわれまず、食べ物を施さなかったからでしょうか?確かにありそうな理由です。しかし実はこれも違います。この金持ちが「自分はこれでいいのか?」と自らを省みなかったからです。

イエス様がこの話をされた相手はパリサイ人でした。彼らは先祖アブラハムを父と仰ぎ、アブラハムを見習って自分たちも裕福であろうとしました。それが神様の祝福のしるしだと思ったのです。しかし彼らが見習うべきだったのは、アブラハムの裕福さではなく、アブラハムの「信仰」でした。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(ローマ4:5)。

聖書はわたしたちにも「あなたはそれでいいのか?」と語りかけています。その言葉に耳を傾け、「このままでは良くない」ことを認め、救い主イエス様を信じる時、わたしたちは救われます。イエス様がわたしたちの代わりに十字架で死んでよみがえられたからです。ちなみに「ラザロ」という名前の意味は「神は助け」という意味です。自分を救えるのは自分ではなく、神様だけなのです。

イエス様を信じる時、その人の生き方は徐々に変えられていきます。自分だけの益ではなく人の益を考え、喜んで分け与える人になります。それはその人自身の力ではなく、洗礼を受けた時に与えられる聖霊様の力です。分け与える人生は、自分だけぜいたくに暮らすよりも、はるかに楽しい人生なのです。

(永田 令 牧師)