「からしだねほどの信仰」 2022/10/2 聖霊降臨後第17主日礼拝メッセージ
ルカの福音書17章5~10節
今年もあと3か月となりました。特に今年はコロナ禍に加えて、ロシアによるウクライナ侵攻で、例年以上に心が重いように感じます。旧約聖書ハバクク書1章2節「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。」これはウクライナの人々の叫びであり、私たちが様々な問題の中で叫ぶ言葉でもあると思います。
そんな時、よく教会でされがちなアドバイスが、「神様が答えてくださらないのは、あなたの信仰が足りないからだ」というものです。そう言われると、「その通りだ。私の信仰が足りないからだ」と、すべてのクリスチャンが思うでしょう。イエス様の12弟子もそうでした。「7度あなたに罪を犯した者を、7度ゆるしなさい」とイエス様に言われた時、弟子たちは「私たちの信仰を増してください。」と言いました(5)。「今の信仰量では絶対無理!」と思ったからです。しかしイエス様は「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。」と言われました。「からし種」とは種の中で最も小さいものの一つです。それくらいの信仰で十分なのです。それはどんな信仰でしょうか?
まず第一に、そもそも自分に何かが出来るとか、神様や他人のお役に立つとか、そういう力は全くなく、むしろ神様の「邪魔」さえしている、ということを認めることです。私たちには罪があるため、「相手のため」と言いながら、いつしか「自分のため」に行動しているからです。しかし第二に、そんな罪ある者を神様は愛してくださり、御子イエス様を身代わりに十字架につけてくださったということを信じることです。「信仰とは受容の受容である」(P.ティリッヒ)。つまり「自分のような者が受け入れられているということを受け入れること」です。これが「からしだねほどの信仰」です。走り幅跳びの選手でも3メートルは飛べません。しかし飛行機に乗れば、赤ちゃんでも何千メートルも飛べます。これがキリスト教の信仰です。だから私たちもイエス様に信頼して、自分に与えられた務めを果たしていきましょう。その時、役に立たないはずの私たちが役に立つ者となり、イエス様から「よくやった、良い忠実なしもべだ。」と言っていただけるのです。
(永田 令 牧師)